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 第四章 律令制下の若越
   第三節 都につながる北陸道
     三 近江から越前ヘの道と愛発関
      愛発関の位置
 愛発関はどこに置かれていたのであろうか。これまでにもいくつかの説が発表されている。(1)西近江路の峠付近に想定する説、(2)同じ西近江路の追分とする説、(3)西近江路と湖東からの刀根越え道とが合流する疋田とする説、(4)敦賀平野渓口部の道口に比定する説などである。
 『令義解』職員令大国条に「関は検判の処、は塹柵の所」とある。おそらく、関に至る道路の前部と後部にが設置されていたのであろう。関には関司の国司をはじめとする行政官や、関を守備する兵士が常駐していたのであるから、そのための施設があった。延暦八年(七八九)七月の三関を廃止する勅のなかに、関に備えている兵器・兵糧は国府へ運び、館舎その他の建物は近くの郡へ移築せよと命じている。このことから推して、関の置かれた場所は、ある程度の広さを必要としたと考えられる。
図72 敦賀市疋田付近の小字

図72 敦賀市疋田付近の小字

 三関の一つ不破関の位置は、東西に近江から美濃へ通ずる東山道と、後世の北国街道・伊勢街道が交錯する地点である藤古川峡谷の左岸段丘上に、北四六〇メートル、東四三二メートル、南一二〇メートルの土塁と、西は藤古川のつくる比高一〇メートルの段丘崖に囲まれていたということが発掘の結果判明した。かなり広大であったことがうかがえる。また、関域から奈良時代前期に属する軒丸瓦を含む古瓦と、数棟の掘立柱建物・竪穴式住居も発見されている。関の西部に「大木戸」の地名が残っている。この一帯は江戸時代大関村とよんだことが注目される。不破関の北方に「小関」という字名がある。この位置は伊吹山西麓を経て琵琶湖畔へ通ずる近世の北国街道上にある。
 逢坂関の位置を知る手がかりとして、『源平盛衰記』二の「山僧焼清水寺」に「山門ノ大衆、追手搦手二手ニツクル。搦手ハ大関小関、四宮川原モ打過テ、九集滅道ヤ、清閑寺、歌ノ中山マデ責寄タリ」とある。ここにみえる「大関小関」とは地名として残存している。そのうち「大関越え」は東海道が通り、「小関越え」はそれから分かれて北陸道に通じる。不破関・逢坂関の例から推して、『令義解』に規定する「関」は「大関」で、「」は「小関」にあたるであろう(館野和己「みやことさとの往来」『日本の古代』九)。
 そこで、愛発関の位置についてみてみよう。西近江路と東近江路の合流地点の疋田には、文明年間(一四六九〜八七)近江方面からの進攻に備える越前最南端の城として、朝倉氏が家臣の疋壇対馬守久保に疋壇城を築かせている。疋田の地を防衛上の適地としてみなしたからである。同じ目的をもった関も、この地を選んだものと考えられるのである。疋田は山中・追分と比べて広い土地をもっている。「正保郷帳」によると、疋田の石高は三〇〇石、山中は四一石、追分は七七石であり、山中・追分では必要な関の施設を置くには狭すぎると考えられる。疋田には「関ノ前」「大隅戸」「的場」「馬場ノ下」「大門」などの小字が残っている(図72)。後世に築城された城塞とのかかわりとも考えられるが、関の所在と関係ある地名と考えられなくもない。
 『続日本紀』天平宝字八年九月十八日条に恵美押勝は精兵数十を遣わし愛発関に入ろうとしたとある。しかし、待ち構えていた物部広成の攻撃をうけて退却した。また、山道をとって愛発を指すとあるが、このときも佐伯伊多智の攻撃で越前国への侵入は果たせなかったのであった。この場合、最初に愛発関へ向かった道は西近江路であったと考えられ、二度目の試みは大浦から深坂越えで追分に出るルートであったと考えられる。これらの記事にみえる関は、(小関)を含む広い意味の関であったと思われる。つまり、山中や追分にはを設けて押勝軍に対処したのであろうから、疋田の役所のある関(大関)のことではなかったといえよう。は疋田を中心にして敦賀側にも設けられていたはずである。疋田・道口間の笙ノ川左岸や小河口・市橋付近の対岸には、土塁跡らしきものやいくらかの出土遺物もあるというから(『敦賀市史』通史編上)、広義の愛発関は道口から山中にかけてであったと解してもいいのではなかろうか。新道に「関」、杉箸に「関ケ平」、道口に「関ノ谷」、坂ノ下に「関前」「上関前」の小字があるが、とかかわりのある小字なのかも知れない。
 延暦八年、愛発関を含む三関は寇賊への防備の必要もそれほどでなくなったうえ、公私の交通の妨げとなっているので、三関を廃止する勅がだされた。その後、大同元年(八〇六)桓武天皇の死去に際して固関がなされたが、これを最後に愛発関は史料で確認されなくなる。こうして、逢坂関が愛発関にとって代わることとなった。



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