愛発関として緊迫した事態は、天平宝字八年九月十一日に起こった恵美押勝の乱である。『続日本紀』によって、この事件の顛末を要約しておくことにしたい。
光明皇太后没後、孝謙上皇の寵臣道鏡の進出が著しく目立つようになった。恵美押勝(藤原仲麻呂)が擁立した淳仁天皇と上皇との対立が生じ、上皇は政治上の賞罰の大権を天皇から奪ってしまった。同年九月二日、恵美押勝は都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使という特別の官に就き、愛発関も管轄下に入れ、自分の自由になる太政官印を使って手兵の増強を図った。十一日皇権の発動に必要な鈴印の奪い合いから、恵美押勝は公然と上皇・道鏡方に反旗を翻すこととなったのである。上皇は即日恵美押勝の官位を奪い、藤原の氏姓を除き、職分や功封の雑物すべて没収を命じ、三関へは固関の使が遣わされた。恵美押勝にとって、都での緒戦は有利に展開しなかった。そこで自分の拠点としていた近江国府に退き、態勢を建てなおそうと図ったが、追討軍の日下部子麻呂・佐伯伊多智ら数百騎は先回りして勢多橋を焼き落としたため、退路は塞がれてしまった。押勝は、わが子辛加知が国守になっていて、押勝自身も広大な土地(二〇〇町)を有する越前国へ退くことに計画を変更せざるをえなかったのである。押勝の逃亡先を察知した佐伯伊多智らは、湖東を馳せて愛発関に至り、物部広成らを愛発関に残して関を固めた。佐伯伊多智らは越前国府へ急行して、国守辛加知を斬り殺した。 |