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 第四章 律令制下の若越
   第三節 都につながる北陸道
     三 近江から越前ヘの道と愛発関
      愛発関
 図70のどこかに古代三関の一つ愛発関が置かれていた。律令国家は軍事・警察・経済上の目的で、往来する人と物の管理統制にあたる施設として、国境や要害地に関を設置した。関はその重要性から三段階に分かれていた。もっとも重要視されたのは三関である。次に重視されたのが、船の取締まりにあたるために瀬戸内海の西と東端に置かれた長門と摂津の関である。これ以外にも交通の要衝や国境には関が置かれていた。関を許可なく越える(私度)場合、三関は徒一年、長門・摂津は杖一〇〇、その他は杖九〇であった。三関には国司が駐留していたが、ほかの関は関守とか守部とよばれた官人か兵が関を守るなど、その重要度によって違いがあった。
 三関は伊勢国鈴鹿関、美濃国不破関、越前国愛発関のことであり、いずれも近江国から官道が右の三か国に入った地点に置かれていた。その主要な任務は、都に反乱が起こったとき逆謀者が都から東国や北国へ逃亡することを抑える点にあった。愛発関の設置年代はわからないが、壬申の乱(六七二)の時すでに鈴鹿関が存在していたことが知られている。三関はいずれも近江国との国境に置かれていることからすると、おそらく近江朝廷の防衛施設として天智朝に創設されたのであろう。その後壬申の乱の教訓として、東国に対する警戒の必要が痛感されたため、天武朝において三関国の制度が確立したのであろうとみられている(『律令』補注)。愛発関は七世紀の後半には設置されていたのではなかろうか。ただし、制度として整ったのは大宝令制以降のことである。
 愛発関の管理は越前国司があたった。関司は国司のうち目以上の者が担当する定めであった。天平三年(七三一)二月二十六日現在の関司は掾坂合部葛木麻呂であった(公二)。三関国の国守には、和銅元年(七〇八)に護衛役の従者である仗二人が与えられた。関国では国司が一人でも欠けたら中央へ急報し、早急に補充される決まりであった。関では鼓や必要な軍器を備え、国内徴発の兵士を交替で守りにつかせた。関国は関と関契の事を取り締まった。関の関とは、通行の善し悪しを調べる役所で、とは塹壕・土塁・柵を構えた施設で、関の前後に備えられていたと考えられる。それに、関契とは緊急の場合、兵の動員・移動などに関する木(竹)製の証明書で、中央と関国が割り符として持っていた。
 関を通行するすべての者は、過所(通行証明書)を持っていなければならなかった。過所は、官吏ならば所属の官司に、庶人は郡を経て申請し、京職または国司から下付されるしくみがとられた。通常、関は日の出から日没まで開門し、通行人を到着順に取り調べた。駅伝馬を乗用する官人が関を通過する場合、関司はその過所または官符を記録した。徴発されて京へ赴く技術者や庸調などを運ぶ運脚などの場合は、それぞれの本国からの名簿とこれらを引率する役人(部領使)とを一緒に調べ、通行を許可した。その役を終えて帰郷するときには、上京時に届けた姓名・年紀を調べて通行を許した。
 天皇の死去(崩御)や政変・戦乱などの緊急事態が発生したという連絡が届くと、防衛体制を固め関門を閉鎖した。これを固関といった。養老五年(七二一)元明上皇死去のとき、天平元年長屋王の変のとき、天平勝宝八歳(七五六)聖武上皇死去のとき、天平宝字八年(七六四)恵美押勝の乱のとき、天平神護元年(七六五)称徳天皇が紀伊国へ行幸のとき、天応元年(七八二)太上(光仁)天皇死去のとき、延暦元年(七八三)因幡国守氷上川継の謀反のときなど使が遣わされて固関している。また、愛発関としてとくに留意しなければならない任務に、外国使節の取り扱いがある。日本海沿岸には、朝鮮半島・中国とくに渤海からの使節がときどき来航して愛発関を通過した。この場合、入国後最初の関である愛発関の関司は、使節一行の持ち物や使節同行の官人(領客使)を取り調べ、すべてを記録して中央の治部省に報告した。ただし二度目に関を通るときはこの必要はなかった。
 三関の兵士は、ときには命を投げ出して死守しなければならない任務に就いていたので、天平元年に陸奥鎮守兵とともに論功行賞が制度化された。また軍防令では、帳内(親王に与えられ、警護や雑用に従事する者)・資人(五位以上の有位者と大納言以上の官人に与えられ、警護や雑用に従事する者)として、三関国および大宰府管内、陸奥・石城・石背・越中・越後国の人を充ててはならないと規定している。これは「蝦夷」に対処するため、人材を中央へ取り上げられてはその備えが手薄となることを警戒したためであろう。しかし、和銅五年・神亀五年(七二八)・天平神護元年にはいずれも三関国から帳内・資人を取ることを禁じている。このことから、中央の有力者のなかには規定を犯して三関国に手を出した者もいたと考えられる。



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