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 第四章 律令制下の若越
   第三節 都につながる北陸道
     三 近江から越前ヘの道と愛発関
      近江から越への道
 近江から越前に入る官道はどこを通っていたのであろうか。近江と越前を結ぶ交通路は陸路だけでなく、琵琶湖の水上交通を考慮しなければならない。そのため湖北地方には海津・大浦・塩津の湊が発達した。それぞれの湊から敦賀へ向かう道が断層谷を利用して作られた。図70のように何本かの道が利用されていた。
図70 近江・越前国境付近の交通路

図70 近江・越前国境付近の交通路

@海津から小荒路―野口―路原―国境―山中―駄口―追分―疋田―市橋―小河口―道口―敦賀に至るコース(七里半越え)、A大浦から山門―新道野―新道―麻生口―曾々木―疋田―敦賀に至るコース(新道野越え)、B塩津から余―沓掛(塩津道)―深坂―追分―疋田―敦賀に至るコース(塩津街道または深坂越え)、C湖東の柳ケ瀬から刀根―麻生口―曾々木―疋田―敦賀に至るコース(東近江路、後世の北国街道)、D近江の鞆結駅から白谷―三国山の東の鞍部を越えて雨谷―山―公文名―敦賀に至るコース(白谷越え)があった。
 駅馬制からみれば琵琶湖の西岸を北上し鞆結駅(滋賀県マキノ町)からやや北東に進み、海津から北上する七里半越え(国道一六一号線)に合流して愛発山塊を越える道、いわゆる西近江路が官道であったと考えられる。しかし、舟運を使う場合は山道の短い塩津道(四里半越え)が利用されたと推測される。Aのコースの北半は深坂越えより新しい道と考えられる。新道野越えは深坂越えより遠回りになって、しかも最高地点は五〇メートルばかり高くなるのであるが、緩傾斜で降雪量も少なかったので新しい道の開発となったのであろう。天長九年(八三二)に「愛発山道」を作るために越前国正税から稲三〇〇束を支出しているが、この時の「愛発山道」とは新道野越えの道のことで、新道という集落はこの道とのかかわりがあるのではなかろうか。二年前の天長七年には「鹿□嶮道」が作られたが、ここの集落新道も新開道とかかわりがあるように思える。
 敦賀市の南部、西近江路に沿う一帯の山を愛発山といった。最高峰は乗鞍嶽(海抜八六五メートル)である。『越前国名蹟考』には「曳田と山中との間、西の方の山なり」とある。愛発は有乳・荒血・荒道・荒茅・阿良知とも書かれる。「あらち」にあてられた文字や、とくに降雪期の通行のつらさを歌った歌から、愛発山塊を越える道の厳しさが読みとれる。「八田の野の 浅茅色づく有乳山 峰の沫雪寒く零るらし」(『万葉集』一〇―二三三一)など多くの詩歌にうたわれたように、愛発山を越えることは「岩根踏み山越える」道で、寒さと雪に悩まされた相当厳しい道路であった。



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