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 第四章 律令制下の若越
   第三節 都につながる北陸道
    二 官道を通った人びと
      国内・他地域との交流
表34 四か国正税帳にみえる国司巡行

表34 四か国正税帳にみえる国司巡行
 天平四年の領催調庸掾従六位上勲九等坂合部宿葛木麻呂(公三)、天平宝字五年班田使の国医師城上石村(寺三五)など、国司が国内で地方行政に携わっている様子がうかがえる。表34は天平九・十年の四か国の正税帳にみえる国司巡行の部分を表にしたものである。但馬国では計帳作成検察のため一九日間、一三人(守一人・従者三人、目一人・従者二人、史生二人・従者二人、医師一人・従者一人)が国内に出かけている。その延べ人数は二四七人であった。このようにして天平九年の但馬国の国司巡行は一一回、延べ人数にして一七九五人を数えた。同じように駿河国では一三三〇人、周防国では一九七一人、豊後国では八郡中三郡分しかわからないが、わかる範囲では三六二人であった。どの正税帳も断簡であるが、周防国の国司巡行の記載部分は全体が残っているので、正税帳に記録されている延べ人数と表の延べ人数は一致している。これらの国の正税帳から、若狭・越前国では地方行政上どれほどの人が、官道や国内の道路を利用したかが推察できよう。なお国司巡行の場合の従者の数は介以上三人、掾以下二人、史生一人と決められていた。 
 敦賀郡の間人石勝や秦曰佐山などは、班給された坂井郡の口分田へ耕作のため移動しなければならなかった。墾田永年私財法によって庶民も墾田の所有が認められると、丹生郡酒井郷佐味玉敷女が丹生郡椿原村に墾田を所有していたように、開墾可能な土地を求めた農民がいた様子は、天平神護二年の「越前国司解」によって容易に想像されるところである。このように一般農民でも自分の意志で道を利用することもあった。
 平城宮から出土した木簡に「若狭国三方郡竹田里浪人黄文五百相調三斗」(木四六)がある。黄文五百相は、他所から竹田里へやってきた納税忌避者であることがうかがえる。正倉院文書のなかに六点の計帳が残っている。その注記に「逃」文字が目につく。徴税や労役に堪えられずに逃げたのであろうが、その逃亡先をも記している。とくに、「山背国愛宕郡計帳」(文五)には越前国へ逃れた数が多い。越前国へ行けば生活の糧が得られたのではなかろうか。開発途上の国で人手を必要としていたり、努力次第で富が得られるといった魅力があったのかもしれない。そうなると逃避というよりは、よりよい生活を求めての積極的な移住であったとも考えられる。官道には浮浪・逃亡の一行もいたのである。
 律令政府にとって、東北の「蝦夷」を服従させることは長い間の課題であった。まず和銅二年には陸奥・越後の「蝦夷」が良民を害するという理由で、陸奥鎮東将軍と征越後蝦夷将軍らを任命し、遠江・駿河・甲斐・信濃・上野・越前・越中などの兵士を徴発して征討させている。同年、越前・越中・越後・佐渡の四か国に対して兵船一〇〇隻を移送させている。同年九月、遠江・駿河・甲斐・常陸・信濃・上野・陸奥・越前・越中・越後の兵士で、五〇日以上征役に参加した者は一年の税が免除された。霊亀二年(七一六)には信濃・上野・越前・越後の四か国の百姓各一〇〇戸を出羽国へ移し、養老元年にも同じく四か国百姓各一〇〇戸を出羽柵戸とし、同三年、東海・東山・北陸道の民二〇〇戸を出羽柵へ移住させるよう命じている。天平宝字三年、坂東八か国と越前・能登・越後国などの浮浪人二〇〇〇人を雄勝柵戸として、強制移住させている。さらに延暦七年には「蝦夷」征討のため糒二万三〇〇〇石と塩を陸奥国へ運ぶよう東海・東山・北陸道などの諸国に命じている。「蝦夷」に隣接する北陸道では人と物の供給地となり、東北地方へつながる北陸道や日本海ルートは、これらの輸送路としても重要な役割を担っていた。



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