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 第四章 律令制下の若越
   第三節 都につながる北陸道
    二 官道を通った人びと
      地方から中央へ
 律令制下では、地方行政の状況を中央政府に報告するため、年四回中央に送る使者を四度使という。1大帳使(大計帳使)は、その年の六月中に国内の戸主に戸内の口数・性別・年齢・容貌や課・不課の別を報告させ、それを郡ごとに集計した大計帳を八月三十日までに太政官へ届ける使いである。天平神護二年の越前国の大帳使は少目榎井朝臣であった(「越前国司解」など)。2その国の正税の年間収納額・現在額・支出用途などの収支決算書を正税帳(大税帳)といい、正倉院には天平二年度の「越前国大税帳」が残っている。正税使はこれを毎年二月末日までに太政官へ送る使いで、その越前国正税使は史生大初位下阿刀佐美麻呂であった。3貢調使は調庸物を都へ運送するとき、品目明細帳である調帳を提出した。国郡の官人の勤務評定書・僧尼死亡帳・兵士歴名簿など多くの雑公文を朝集公文といい、若狭・越前国などの朝集使は、朝集公文を持って十一月一日に太政官に出頭した(考課令)。天平三年二月二十六日の「越前国大税帳」に従七位上大目土師(名欠)に朝集使と書き添えられているから、天平二年度に上京した越前国朝集使であったのである。朝集使が上京する際、近・中国の駅馬乗用を禁じ、それぞれの国の百姓の馬を雑徭の代わりに徴発した。しかし、養老六年八月二十九日付「太政官符」には、これより以後公事によって上京する国司には駅馬の乗用を許すとある。また、食料も支給された。
 東海道の駿河国天平十年の正税帳によると、覓珠玉使、上総国進上文石使、陸奥・甲斐国進上御馬部領使、陸奥から摂津国への俘囚部領使が都へ向かっている。山陽道の周防国天平十年の正税帳には、大宰府から進上した銅竈部領使・法華経部領使・御鷹部領使、大宰故大弐紀朝臣骨送使などが周防国を通過して京に向かった記録がある。「古之乃三知乃久知」とよばれた越前国を通過する、出羽・佐渡・越後・越中・能登国などの使いもかなりの数に上ったものと思われる。
 北陸道にはたびたび渤海使の来航があった。故聖武天皇の弔喪のための渤海使が来航した例を挙げてみよう。天平宝字二年九月十八日、遣渤海大使小野田守ら六八人が、渤海大使揚承慶ら二三人を伴って帰朝。渤海使を越前国に安置する。同年十月二十八日には遣渤海大使田守らに位が授けられている。同年十二月十日、遣渤海大使田守は安史の乱など唐国の事情を報告している。同年十二月二十四日渤海使が入京する。
同三年二月十六日に渤海使揚承慶一行が帰国の途につくまでは、都で正月の拝賀、渤海国王の国書や献上物の受け渡し、渤海使への叙位、渤海国王への土毛授与などの儀式がなされている。渤海使らが日本に来て入京するまで、三か月ほど越前国で過ごしたことになる。その間中央と渤海使との間で諸交渉がなされ、飛駅や駅馬が北陸道を往復したものと考えられる。遣渤海大使一行六八人の帰京、渤海使一行二三人の入京にあたっては、日本から渤海使接待係・通訳や護衛の兵士など、かなり多くの集団が北陸道を移動したであろう。渤海使が帰国する際には「迎藤原河清(清河)使」高元度一行九九人が加わっているから、大集団が官道を利用したものと考えられる。
 次に、農民が調・庸・雑物の輸送や労役に服するためなどでの上京について述べてみたい。若狭・越前国の農民が京へ輸納しなければならなかったのは、調・庸・中男作物のほかに年料舂米・年料租舂米・年料別貢雑物・貢蘇・交易雑物などがあった。調庸物は運脚の背で陸路を輸送された。運脚は貢調使に引率され、近国の若狭は十月三十日、中国の越前は十一月三十日以前に、調庸物の輸納を終わらなければならない定めであった。この際、運脚の往復の食料は自弁であり、若狭は上り三日と下り二日、越前は上り七日と下り四日を要したので、少なくとも若狭は五日分、越前は一一日分の食料を携帯しなければならなかった。しかしながら、史書には、帰郷用の食料がないために、市辺に餓死するにいたった運脚の多いことがしばしばみえる。このように運脚にとって路粮が大問題であったのである。和銅五年(七一二)の詔では運脚に銭を持たせて郡稲と交易できるようにさせたり、同六年には路次の国郡司・富豪らに米を売らせるように命じた。その後、天平宝字元年には京の官人や国司に路粮・薬の支給を命じている。同三年には常平倉を設けて運脚を救おうとしたが、あまり効果は期待できなかったようである。北陸道においてはとくに越前国以北出身の餓死した運脚が横たわっていたものと思われる。
 天平九年の「但馬国正税帳」によると、「運雑物向京夫一〇六〇人 行程一〇日(向京六日 還国四日)往還単一万六〇〇日 充稲三三九二束」と担夫の往復の路粮(糧)を支出している。調庸物以外の雑物を京へ輸納した担夫には帰郷の食料を支給し(養老四年)、また、京に向かう担夫の食料として出挙の利稲を充てた(神亀元年)。こうして調庸物以外の輸納に使役された担夫の食料は、往復とも支給された。
 天平十七年敦賀郡与祥郷大神黒麻呂(文一一)・天平勝宝二年丹生郡大屋郷秦人部床足(文一七)・同五年丹生郡勝郷大屋子千虫(文二四)・遠敷郡丹生郷秦人広山(文二五)などは仕丁として(ただし第一節で述べられているように、これらの文書は『大日本古文書』では「仕丁送文」とされているが、「優婆塞貢進文」の可能性もある)、また東大寺大仏殿建立の大工として活躍した足羽郡人益田縄手などは、丁匠としてそれぞれ徴発された。これら仕丁・丁匠の往復の食料は、はじめは自弁であったが、天平十年からは役を終えて帰郷するときは路粮の支給があった。延暦十年(七九一)、越前など七か国に平城宮の諸門を解体して、長岡宮へ移築するよう命じている。同十二年、若狭・越中二国で安嘉門を、越前国は美福門を造るよう命じている。同十八年、若狭など一一か国の役夫を徴発して造宮に充てた。これらの役夫は雇役として都へ徴発されたものであろう。雇役は手間代と食料(功食)が支給される労役であったが、国司が徴発する強制労働に変わりはなく、官道は農民から物と労働力を収奪する道でもあった。
 郡司層のなかから上京して舎人となるものが多かった。
生江東人のように造東大寺司の役人から足羽郡司になった人物、味真御助麻呂のように都に住んで五位になった人物、敦賀石川・三国広山・足羽宅成・生江秋麻呂・秦嶋主など写経関係の仕事に従事した人物もみられる。生江家道女は熱心な仏教徒であって、都では罪福を説いて百姓を眩惑したとのことで、延暦十五年に足羽郡へ逓送された。



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