目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 律令制下の若越
   第三節 都につながる北陸道
    二 官道を通った人びと
      中央から地方へ
 先にみた「越前国郡稲帳」によれば、天平四年(七三二)には検舶使や官符逓送使が越前国に来ており、能登の新任国司が越前を通過している。また、名目不明ながら四四名がおそらく国府に来たものと考えられる。この郡稲帳は断簡であり、しかも食料を供給した者しか記載されていないから、かなり多くの人物が往来したものと考えられる。

表33 北陸道関係の政府の諸使

表33 北陸道関係の政府の諸使
 律令国家では、律令制度の維持発展のため、地方行政を監督し人民の生活を観察する必要があったので、中央からの諸使の派遣があった。国司が往復したのは当然であるが、それ以外に史料にみえる役人を挙げたものが表33である。隣接する数か国の国司のなかから兼務で任命され、管内諸国を巡察し国司の政績を調査し、民情を視察する役人として按察使があった。若狭国は近江按察使が兼ね、越前国の場合は越前按察使が能登・越中・越後(のちに佐渡も)の巡察も行った。国司・郡司の治績を調べて人民の窮乏を査察する巡察使は道別に派遣され、若狭・越前国は北陸道巡察使の巡察を受けた。巡察使の廃止後それを補うように、大同元年(八〇六)に置かれた観察使は各道に置かれ、参議が就任して国司・郡司の執務監査を担当した。凶徒を逮捕し国司・郡司の治績を監査する鎮撫使も道別に置かれたが、天平十八年に停止されている。諸国の正税稲を現地で監査するために、検税使が道別に派遣された。さらに、民衆の貧困・病気・飢餓などを救うために、問民苦使が道別に派遣されたが、『続日本紀』の派遣記事は一度だけで長続きしなかった官のようである。これら諸使には、属僚である判官・主典や録事なども任命された。そのうえ、位に相当する従者を従えていたのであるから、一行の数はかなりのものになったと考えられる。公式令給駅伝馬条によって駅使や伝使が従えた従者の数を調べると、二・三位の駅使は七人、伝使は一九人、四位では五人と一一人、五位では四人と九人、六位から八位では二人と三人、初位以下では一人と二人というのが原則であった。
 『万葉集』一五に中臣宅守が蔵部女嬬狭野茅(弟)上娘子をめとって流罪に処せられ、越前国に流されたとある。流罪地は狭野茅上娘子の歌から越前国味真野(武生市)であったことがわかる。神亀元年(七二四)三月流罪の場所を伊豆・安房・常陸・佐渡・隠岐・土佐を遠流、諏訪・伊予を中流、越前・安芸を近流と決めているから、宅守は流罪のなかでも軽かったのである。貞観八年(八六六)九月、応天門焼亡の罪で大納言伴善男が伊豆へ流されるという事件が起こった。これに連座していたとみなされた多くの者が、いろいろな所へ遠流に処せられている。そのなかには越前国足羽郡人生江恒山のような伴善男の従者も含まれていた。北陸道関係では伴浄縄は佐渡へ、下野守伴河男は能登へ、上総権少掾伴夏影は越後へ遠流に処せられ、北陸道を通過したのであろう。流人の護送には太政官から専使が派遣されるが、それぞれの軍団の少毅も護送にあたった。また、罪人の移送には路次の国が食料を支給し、伝馬を用いる場合もあった(獄令)。これら罪人護送の一行も相当の人数となったであろう。天平十年、周防国の流人一人を護送するのに、刑部省の六位の役人一人と従者二人計三人があたったという例がある(「周防国正税帳」)。天平宝字八年(七六四)九月に仲麻呂の乱が起こると、山背守日下部子麻呂・衛門少尉佐伯伊多智らは仲麻呂の逃亡先の越前国へ先回りして、仲麻呂の子越前守恵美辛加知を斬り殺し、愛発関に戻って仲麻呂の北上を押さえている。この時の佐伯伊多智ら征討軍一行は、北陸道を疾風のごとく往復したのであろう。東北の「蝦夷」征討にかかわる兵士の移動も北陸道が使われたものと考えられる。
 養老七年(七二三)の三世一身法や天平十五年の墾田永年私財法によって、寺社や貴族・豪族は私有地を増やす努力を惜しまなかった。中央の権門勢家や官人は、開墾可能な土地を求めて地方へ進出してきた。次の(1)〜(7)のように越前の例では、収穫物を中央へ送るための水上交通が利用できる位置で、開墾可能な場所が選ばれたようである。(1)大伴麻呂は坂井郡堀江郷に野地九六町二段余をもっていた(寺三)。(2)坂上犬甘の地は桑原荘の西にあった(寺二)。(3)左京六条二坊戸主従七位上間人鵜甘の戸口正八位下間人鷹養は坂井郡海郷の地に九町三段余の土地と一町の土地付き家一区をもっていた(寺三二)。(4)右大臣藤原永手の田は坂井郡溝江荘にあった(寺三八)。(5)右京三条三坊戸主三国磯乗男国継は坂井郡田宮村に墾田一町をもっていた(寺四四)。(6)舎人親王の子船王は足羽郡道守村に墾田八段余をもっていた(寺四四)。(7)右京四条一坊戸主従七位上上毛野奥麻呂の戸口田辺来女は道守村周辺に約五八町の土地と屋・倉をもっていた(寺四四・四九)。
 国家権力を背景にした造東大寺司は、天平勝宝元年に北陸道へ野占寺使僧平栄を派遣した。この年、越前には丹生郡に椿原荘、足羽郡に糞置・栗川・鴫野・道守荘、坂井郡に田宮・子見荘が占定された。これらの荘園に加え、買得した桑原・高串荘や寄進による鯖田国富荘の経営には、中央にある造東大寺司の命令で越前国史生安都宿雄足が現地の総括責任者となった。実務を遂行するための田使には左大舎人曾乙麻呂や散位正六位下尾張古万呂が派遣されてきた。それに生江臣東人などの郡司や有力農民の協力があった。
 こうして各地に荘園ができてくると、荘園領主と地方との交流が盛んとなる。たとえば天平宝字二年、丹生軍団百長宍人黒麻呂が、越前国司の交易使として造東大寺司へ赴いているのもその現われである。このように荘園経営にあたっても、律令国家が建設した官道が利用されたのである。
 



目次へ  前ページへ  次ページへ