目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 律令制下の若越
   第三節 都につながる北陸道
    一 官道の役割
      道路の管理
 道路の管理は民部省と国司が担当し、修理は国司が行なう規定であった。船着場・橋・
道路の修理は、毎年九月半ばよりはじめて十月には終わるようにさせ、幹線道路が損壊した場合は、適宜雑徭により修復させることにしていた(営繕令)。
 古代にあって河川は水上交通には重要であったが、陸上交通を遮断する存在でもあった。とくに増水期に河川を渡ることはきわめて困難であった。弘仁十四年(八二三)越前国から加賀国が分国された理由の一つに、加賀郡から越前国府までには四大河川があって、洪水ごとに無駄な日数を要することがあげられている。この四大河川とは、手取川・九頭竜川・足羽川・日野川なのであろうか。河川の横断は、渡渉しやすい所を選んでなされたのが一般的であったと考えられる。しかし、律令国家にとっては少々の増水でも交通を可能にしておく必要があった。そのための交通施設として架けられた橋には、浅瀬に石を並べ飛び石伝いに渡る石橋、板を打ち並べただけの打橋や棚橋のような簡単なものから、川底が深い所では、舟を綱でつなぎあわせてその上に板を敷き並べた舟橋や、橋といった時に思い浮かべるような橋脚・橋桁をもつものまでがあった。
 天平勝宝七歳の加賀郡司の報告によると、加賀郡が送らなければならない米五〇五一石余に、坂井郡から要請のあった「久米田橋」の智識料稲を合わせて坂井郡へ送るとある(公六)。久米田橋の位置は、山間部を流れた九頭竜川が福井平野に出たところの丸岡町鳴鹿付近に比定される。この地点には、越前国府へ通ずる古くからの山沿いの陸路がほぼ南北に通じていて、これをつなぐ久米田橋はきわめて重要な橋であった。だから、橋を造る費用を喜捨する智識橋として、加賀郡も負担したものと考えられるのである。しかし、架橋が困難な所では渡し船が用意され、船一艘に二人の度子が置かれる規定であった(雑令)。
 天長七年(八三〇)二月二十五日、越前国の「鹿K嶮道」を作らせるために、越前国正税三〇〇束と鉄一〇〇〇廷を百姓上毛野陸奥公K山に与えている。先に述べたように、この木ノ芽峠越えは平安時代の初めに官道として開発された道で、新道という集落はこの道の開発とかかわりが深いものと思われる。同九年六月二十八日には、越前国の「荒道山道」を作るため越前国正税三〇〇束を坂井郡の秦乙麻呂に与えている。この「荒道山道」とは、近江国と越前国を結ぶ山道で、人馬の往来が激しくなって道の拡幅が必要となったのであろう。
 元慶七年(八八三)正月、上京のために渤海使が通過する山城・近江・越前・加賀国に、官舎や道路・橋の修復と道端の死骸を埋葬するように命じている。律令政治の後退によってか、道路行政が滞っている様子がうかがえる。また、道端に腐乱した死体が横たわっている様子から、当時の生活の厳しさと交通の困難さもうかがえる。



目次へ  前ページへ  次ページへ