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 第四章 律令制下の若越
   第三節 都につながる北陸道
    一 官道の役割
      水上交通と敦賀津
 律令国家がとった交通政策は、陸運中心の体制をとった中国の制度を範とし、水運より統制しやすい陸運に力を入れたものであった。しかし、島国であるわが国では古くから船を利用した通行があり、水上交通を抜きに交通を考えることはできない。敦賀平野の東北方に位置する木ノ芽山地は、それほど高くはないが海岸まで迫っているため、南北の交通を遮ってきた。畿内の文化が敦賀経由で海の道を通って越前北部にもたらされたことは考古学的にも明らかである(橋本澄夫『北陸の古代史』、浅香年木『北陸の風土と歴史』)。原始時代においても、潮流を利用した日本海ルートによって人の往来があり、また大陸文化がもたらされた。『記』『紀』の説話のなかにも、角鹿津を中心としてツヌガアラシトの渡来説話や「熊襲」征討説話があるが、いずれも海上交通を利用したものである。天然の良港敦賀は東北経営の基地としても重要であった。律令時代になって陸路が整備されても、敦賀を中心とする海上交通の利用は一層頻繁となった。
図69 若狭・越前国の駅家比定地と古道

図69 若狭・越前国の駅家比定地と古道

 『万葉集』によると、塩津山を越えた笠金村は北へ向かうため敦賀で大船に乗った。しばらく進むと湾入部にある手結(田結)の海岸では海乙女の塩焼く煙が遠望できた。その様子を眺めて郷愁の情をうたっている(三―三六六)。また、「大船に 真梶繁貫き 大君の 命かしこみ 磯見するかも」(三―三六八)とうたったのは石上大夫である。『万葉集』の編者は石上大夫は越前国守石上朝臣乙麻呂でないかとしているが、石上乙麻呂が越前の国守であったという記録はない。しかし、国司が国内巡検に船を使っていることがうかがえる歌である。
 交通を遮断する木ノ芽山地に加え、越前国も豪雪地帯であって冬期は平地でさえ人・物の交流が途絶える。まして山間部における積雪は平地の三〜四倍と多いので、とくに南北を結ぶ冬場の交通は水上交通に頼らなければならなかった。敦賀からは杉津・河野・三国へ、さらに北の各地へつながっている海の道が利用されたのである。
 物資の大量輸送に適しているのは船である。だから、米など重い荷物の京進には船が利用されたのであるが、公費によって輸送する場合は、公定送料を決めておく必要があった。若狭の場合は陸路で勝野津(滋賀県高島郡)へ行き、ここから大津まで船を使い、大津から京へは陸路を行くコースをとった。越前国の場合は比楽湊から船で敦賀へ行き、敦賀から塩津へは陸路、塩津から大津は船、大津から京へは馬に積んで運んだ。越前から米五〇石を都へ運ぶ場合、馬を使って陸路を行くと米四五・五四石と塩五・九四升の経費が必要である。ところが、船と馬を使った場合は米一四・九二石と塩二・九七升の経費ですみ、馬だけで運ぶより経費は三分の一と低廉であった。とくに都から離れた国ほど陸路と海路の経費の差が大きかった。
 敦賀津には若狭を除く北陸道諸国から、官米などの物資が運送されてきた。東大寺の荘園をはじめとする諸荘園の収穫物など中央へ運ぶ物資の多くは、九頭竜川・日野川・足羽川・竹田川などの中小河川によって、いったん三国湊に集められた。こうして嶺北地方の物資は三国湊から、加賀国は手取川河口の比楽湊から、能登国は加嶋津から、越中国は曰理津から、越後国は蒲原津から、佐渡国は国津から、それぞれの国の雑物が船によって敦賀津に廻送され荷揚げされたのである。
 ところで、手取川(比楽川)の河口に比定される比楽湊は、越前北半の郡津・国津の機能をもっていたと考えられる。しかし、越前国のすべての物資が比楽湊に陸送または海送されて船積みされたとは考えられない。越前国のうち敦賀地区を除くすべての河川、とくに竹田川・九頭竜川・足羽川・日野川は三国に注いでいる。かつての畿内文化がこれらの河川を溯行して伝播されたことを考え合わせると、都へ向かう船はこれらの河川を下って三国湊に集まることはごく自然であったと思われる。しかし、これらの物資の運漕功賃は比楽湊から船積みしたものとみなして査定したのであろう。ところが『延喜式』では加賀国分国後も修正を加えず、比楽湊が越前国内にあった時代の規定をそのまま記録したため、越前国の物資を加賀国まで運び、比楽湊から船積みすることとされたのであろうと考えられる。
 兵部省は公私船舶の現況を把握しておく必要から、毎年、船の材質・形態・積載量や利用に堪えうるかどうかなどを調査し朝集使に報告させること、官船の管理は兵士に、主船司の管理は船戸にさせること、また使用に堪えられるように破損したらすぐ修理することなどを命じている(営繕令)。時には検舶使弟国若麻呂のように現地調査に地方へ出かけることもあった。和銅元年、越後国内に出羽郡が建郡され、同二年には征夷の中心拠点として出羽柵が置かれた。この年、越前・越中・越後・佐渡にある船一〇〇艘を征狄所へ運航するよう命じている。越前国をはじめとする四か国には、少なくとも一〇〇艘の官船があったことがわかる。
 天平神護二年、東大寺は百姓らの墾田地を買い求めたり、口分田と寺田を交換したりして荘園の一円化を図っている。坂井郡西北一条五布居里・六石田里、西北二条六粟生田里にある東大寺領田宮村には一三町九段九九歩の百姓口分田が混在していたので、これを寺田と交換する必要があった。田宮村に口分田をもっていた者のなかに、敦賀郡津守・伊部・質覇・神戸・鹿蒜郷の百姓、延べ一一人が含まれている。このうち、津守・伊部・質覇・神戸郷の百姓への代替地として与えられたのは坂井郡西北四条十四社田里で、ここは班給されていた所から、条里畦畔に沿って最短距離で七・二キロメートル離れている。この付近では九頭竜川が北流している。ところが、今庄町の一部に比定される鹿蒜郷の百姓二人に代給された水田は、「石田里」の東隣の「布居里」であった。なぜ敦賀郡の百姓に与える代替地を一括して社田里にしなかったのだろうか。東大寺が荘園の一円化を図るためには百姓の協力が必要であった。だから交換条件として、とくに代替地の場所について配慮したのではなかったかと考える。つまり、鹿蒜郷以外の郷の代替地は九頭竜川に近い「社田里」にしたこと、鹿蒜郷の百姓の代替地は班給地より約七〇〇メートル南の「布居里」と、鹿蒜以外の郷の百姓とは離して代替地を与えていることである。おそらく鹿蒜郷の百姓は本貫地と口分田との往復には陸路をとったであろうと考えられ、鹿蒜郷以外の敦賀郡の百姓は九頭竜川と日本海の水上交通を使ったのであろう。これら代替地について東大寺は、百姓の郷の位置と交通手段を考慮したものと考えられるからである。東大寺領荘園の分布をみると、水上交通に便利なところに占定されているようであるから、中小河川には船の往来があったに違いない。



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