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 第四章 律令制下の若越
   第三節 都につながる北陸道
    一 官道の役割
      三尾駅
 田券史料や『和名抄』には三尾という名の郷はない。三尾という地名はおそらく郷のなかの一村名であろう。ところが、天平五年「山背国愛宕郡某郷計帳」(文五)に「兄秦倉人麻呂 年四四歳 正丁 越前国坂井郡水尾郷」という記事がある。天平五年ごろには坂井郡に水尾郷があったことがわかるが、「水尾」は「三尾」に通じると考えられる。天平神護二年の「越前国司解」には同郡「赤江郷」があったが、『和名抄』には赤江郷はないように、おそらく開発途上で郷の統廃合がなされ、三尾郷や赤江郷もその対象になったものと考えられるのである。それではかつての三尾郷はどこにあったのであろうか。金津町御簾尾がかつての水尾郷の名を現在に伝えるものであるとすると、堀江郷の東に接して竹田川東一帯に比定される。ここには矢地・御簾尾・中川・北野・北・前谷地区が含まれている。三尾駅はこの範囲内にあったのではなかろうか。前谷地区に「駒田」、北地区に「的場」、北野地区に「杉縄手」、矢地地区には「海道畑」があり、いずれも交通にかかわりのある小字である。この地域は南の丸岡方面からの大道が、前方後円墳の多い横山古墳群西麓に沿って走り、この地区から西へ向かえば芦原・三国方面へ、北へ向かえば江沼郡(加賀国)に至る交通の要衝である。桑原に駅家が置かれていた事実は、この近辺に官道が走っていたことを意味し、駅家を変更する場合、最初の駅家桑原駅に近接したところが選ばれたに違いない。ここから牛ノ谷まで北進したのち、牛ノ谷トンネル上の鞍部を越えて加賀国南端の駅である朝倉駅(橘)に至ったものと考えられる(真柄前掲論文)。



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