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 第四章 律令制下の若越
   第三節 都につながる北陸道
    一 官道の役割
      桑原駅
 天平神護二年の「越前国司解」によると、桑原駅家子戸主丸部度の口分田が、坂井郡の西北五条神田里十三次丁田に二反一八〇歩と同里十四椋門田に三反一三〇歩あった。東大寺の一円化によって前者の分は東北隣の西北七条四沼辺里十一綾部田、後者の分は東北九条一葦原田里三葦原田と十七池田の東大寺田と相替している。この史料から桑原駅のあったことがわかるのであるが、桑原という駅家名は『延喜式』『和名抄』いずれにもない。天平勝宝七歳三月九日付「越前国公験」(寺二)によると、東大寺が坂井郡堀江郷綾部道の南に広がる土地一〇〇町歩を、大伴宿麻呂より銭一八〇貫文で買い取って成立した荘園が桑原荘である。桑原荘の一部は竹田川左岸の金津町桑原に比定される。堀江郷の中心部は芦原に比定され、堀江郷の東限が現在の金津町桑原としても、郷域はかなり広大であったと考えられる。これは開発途上の地域であったからであろう。初めて駅馬の制をしいたとき、高燥な桑原に駅家を置いたのであろうが、この一帯が東大寺の荘園になったため、駅家の位置を「三尾」へ変更したのではないかと考えられる。しかし、桑原が東大寺の荘園となったのは天平勝宝七歳であり、桑原駅家子の記事があるのは天平神護二年であるところをみると、すぐ駅家の変更がなされたのではなく、東大寺と地方・中央政府との交渉に、年月を必要としたのであったのかもしれない。



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