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 第四章 律令制下の若越
   第三節 都につながる北陸道
    一 官道の役割
      足羽駅
 「足羽」は郡・郷・山・川・神社・豪族などの名称として使われている。足羽駅は足羽郷に比定される。それでは足羽郷はどこに比定されるのであろうか。天平神護二年十月十日付「越前国足羽郡司解案」(寺四〇)によると、後世の足羽川は生江川といっていた。道守村の田を潅漑するには生江川から、道守村の北に比定される鴫野村の田を潅漑するには足羽堰から引水するとある。足羽堰は現在の足羽山(加夫田山)の北に置かれたものと考えられる。足羽山を中心とする一帯が足羽郷であったのであろう。駅家は九十九橋の南に比定してはどうだろうか。足羽駅は舟運と官道が交わるところであり、また、福井平野が大きく広がる位置にもあるところで、道は放射状に走る交通の要地であったはずである。
 足羽駅から三尾駅に至るための官道はどこを通っていたのであろうか。福井平野に降った雨のほとんどがこの坂井平野に流れこむ。そのためとくに九頭竜川の氾濫原が広がっていた。天平宝字元年の「越前国司解」(寺七)や天平神護二年の「越前国司解」によると、「沼辺」「片沼」「葦原」「足原田」「池田」「大沼田」「阿沼」「窪田」など、湛水沼地・湿地を想像させる地名が多い。坂井平野に東大寺の田が多いのは、このような自然環境の未開の荒地が多かったからであろう。また、古代の坂井平野には凹地がかなりあって、東大寺田に引水するのに多くの樋を必要としたことからもうかがえることである。このような自然環境であったので、坂井郡のほとんどの郷は高燥な東・北側の山麓に比定される。現在JR北陸本線や京福電車がほぼ直線で南北に併走しているが、当時このように官道を走らせることは困難であったと考えられる。足羽駅からほぼ北に進み舟橋で九頭竜川を渡り、森田・丸岡・長畝・横山西麓・中川に至ったものと考えるのであるが、先の里名のなかには西南一条五馬庭里(この里の東にある足原田里の十七・十八・二十・二十一・三十一坪は馬庭田)、西北三条五馬立里、西北六条三路田里、西北十二条七路田里がある。これらは道と関係がありそうな里名ではある。律令制下の官道は直線であるという説をとると、馬庭里と馬立里が同じ里の並びになることが気になるところである。



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