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 第四章 律令制下の若越
   第三節 都につながる北陸道
    一 官道の役割
      阿味駅
 越前国の駅家でこの駅家ほど比定地に諸説のあるところはない。福井市舟橋説(『日本地理志料』、旧『福井県史』)、春江町松木説(『大日本地名辞書』)、坂井町大味説(『北陸古駅新考』)、足羽郡安味郷説(『上代歴史地理新考』)、今立郡味真郷説(金坂・真柄前掲論文)である。『日本紀略』弘仁十四年(八二三)六月条にみえる越前国の言上によれば、「丹生郡は一八の郷と三つの駅を管理している。土地が広く人が多いので九郷一駅で一郡を建てる。この郡を今立郡という」とある。旧丹生郡には三駅あったというがこの三駅とはどれであろうか。郷名と一致する丹生駅と朝津駅は丹生郡である。あとの一駅は淑羅駅か阿味駅ということになるが、式内社などの分布から淑羅駅は敦賀郡域と考えられるから、残る阿味駅が旧丹生郡域にあったことになり、この阿味駅こそが今立郡域にあったことになる。『日本紀略』の記事と阿味駅が旧丹生郡内にあったことが正しいとすれば、舟橋説・松木説・大味説・安味説は除外せざるをえない。
図68 武生市味真野付近の小字

図68 武生市味真野付近の小字

 阿味駅を今立郡にあったとする説には二つある。ともに味真郷にあったとするが、その位置が異なっている。一つはその位置から中新庄説であり、もう一つは味真野説である。中新庄説は、奈良時代の官道は直線であったという多くの事例をもとに、越前国も例外ではなかったという前提にもとづいている。官道は丹生駅(小松)から条里区画の条線に沿って直線で東に進み、杉崎山から直線に北へ伸びる坪界線に沿って走っていたとする。昭和二十三年の空中写真によると、杉崎山の北端から直線の道路らしきものが、所によっては断続しながらも続いていることがわかる。明治九年の地籍図によると、村界と一致するところが多いこともわかる(『資料編』一六下)。これはかつての官道の名残であるという。三里山の西、中新庄(武生市中新庄町)に「御厩」という小字があるのは、このあたりに阿味駅があったからであろうという(金坂前掲論文)。
 味真野説は、鯖波(淑羅駅)から牧谷越え(海抜五〇〇メートル)で味真野に至り、ここから三里山の東を通って戸口坂(海抜二〇〇メートル)を越えて足羽郡に出る。篠尾あたりで足羽川を渡り、小畑峠から松岡に出て九頭竜川を渡り、鳴鹿から丸岡に至る山沿いの道があったと考えられる。九頭竜川の鳴鹿付近に架けられた「久米田橋」は、山沿いの道の重要さを物語る証左であろう。この道沿いには式内社や古墳が多い。味真野周辺は継体伝承の多い地域であるところから、継体天皇は母振姫の故郷であった丸岡からこの道を通って味真野に進出してきたと考えられる。味真野には白鳳期の建立といわれる野々宮廃寺があり、かなりの権力をもった豪族の存在が考えられる。中臣宅守が流された地でもある。武生に国府が置かれる以前から、味真野はこの地方の中心的位置であったに違いない。このような土地柄であったから一駅を置く必要があったのであろう。味真野には「東大道」「西大道」「西馬場」「東馬場」など(図68)、駅家を思わせる小字がみられる(真柄前掲論文)。味真野の伝承地の一つに継体天皇の秣原があるが、阿味駅の馬五匹のための秣原であったとも考えられる。



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