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 第四章 律令制下の若越
   第四節 開発と土地管理
     二 嶺北地方の条里
      「細枳村」の条里
 天平宝字元年(七六一)の「越前国司解」(寺七)には、坂井郡大領品遅部君(公)広耳が東大寺に寄進した墾田一〇〇町の所在が条里呼称法にもとづいて記載されている。それには「東北二条」といった郡を四分割する条里呼称法で土地表示がなされているが、その末尾に至ってはこれとは異なった表記法になっている。すなわち「細枳村二条三苗田里」とあるように、四分法の方位を表記する部分に「細枳村」とあるだけで、以下「二条三苗田里」となっている。このことは、郡の統一的な四分法条里の規制をうけない、あるいはそれに属さない条里区を想定できる。記載様式からして、おそらく「細枳村」にのみ適用された条里プランと考えられる。
図77 「細枳村」の条里復原説明図

図77 「細枳村」の条里復原説明図
注) は品遅部君広耳の寄進墾田所在坪

 この「細枳村」は『和名抄』の坂井郡郷名のなかに該当するものがみられない。しかし、「枳」には、「えだ、また、わかれ」の意があることから、「細枳村」の位置を郡の統一的条里プランとは別の山間の狭小な平地部に考えることができよう。
 ところで、郡の北部に旧細呂木村がある。坂井郡の式内社名にも保曾呂伎神社とみえ、それは細呂木村の大字沢にある春日神社に比定されている。「枳」に「キ・ギ」の訓みがあり、『大日本史』に保曾呂伎神社の祭神を「細呂枳神」と記すことから、「細枳」が細呂木に通用する可能性が考えられる。また、細呂木村付近の地形は、加越台地の浸食谷が枝わかれ状に派生しているので、「細枳村」を細呂木村付近に想定できそうである。
 細呂木村を流れる観音川両岸には部分的に条里地割がみられ、それらは全体として一町方格になっているので、一連の条里地割と考えられる。したがってその方格網上で、先述の東大寺に寄進された田の分布が、細呂木村付近の水田立地可能な耕地部に適合する位置を求める作業を試みることができる。結果的には図77に示した条里地割の分布および田の所在状況、ないしこれより東へ一坪分あるいは西へ一坪分移動させた場合が最も適合性が高い。
 南北線が北約三度東に傾くこの「細枳村」条里と北約一度西に傾く坂井郡条里は、同郡内であっても異なった方位を示し、また基準線においても明確な関連性は認められない。両者は別の基準で設定された可能性が高いと考えられる。しかしながら、「細枳村」条里の条・里数詞の数え方および坪並配列は、坂井郡東北条里区型と一致していることから、このことは「細枳村」条里の大部分が坂井郡東北条里区に相当する位置を占めるためとの推定が可能となる。もしそうであるなら、両者はまったく別の基準であったともいえなくなり、「細枳村」条里は、統一的な坂井郡条里の規制をうけて編成されたとの想定もできることになる。



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