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 第四章 律令制下の若越
   第三節 都につながる北陸道
    一 官道の役割
      敦賀から鹿蒜駅への道
 木ノ芽山地(最高峰の鉢伏山は海抜七六二メートル)はそれほど高くはないが、海岸まで迫っていて南北の交通を大きく遮ってきた。鹿蒜駅への陸路は樫曲・越坂・田尻・ウツロギ峠・五幡・挙野・阿曾・杉津に至る。杉津に至るまでには、いくつもの小峠を登り降りしなければならなかった。ここから海岸線を北に進み、大比田・元比田から山中峠(海抜四〇〇メートル)を越え、鹿蒜川に沿って東に進んで鹿蒜駅に至るCルートと、樫曲・越坂・葉原・木ノ芽峠(海抜六二八メートル)を越えて二ツ屋経由で鹿蒜駅に至るDルートが考えられる。
写真69 木ノ芽峠

写真69 木ノ芽峠

 Cルートには万葉古歌が多く、奈良時代の官道は五幡・杉津・中山峠のCルートであったと考えられる。しかし、Dルートの木ノ芽峠越えは距離的に短く、かなりの利用があったのであろう。平安時代初めの天長七年(八三〇)二月二十五日、「鹿□嶮道」を作るため、百姓上毛野陸奥公□山に越前国正税三〇〇束と鉄一〇〇〇廷を与えている。「鹿□嶮道」とは敦賀から木の芽峠を越えて、鹿蒜郷に至る険しい道と考えられ、この道普請のあとDルートが官道に昇格したのではないか。また、「新道」集落はCルートとDルートの交差地点にあって、天長七年以降の集落と考えられる。
 『万葉仙覚抄』にはC・Dのルートを比較して「いつはたこえ(五幡越え)はすい津(杉津)へいづ(出)、きのへこえ(木ノ芽越え)はつるか(敦賀)の津へ出る也、きのへこえはことにさかしき(険しい)道なり」という記載がある。この記事は新道から分かれる両道について説明しているもので、五幡は杉津の南に位置しているので、山中越えのCルートを「五幡越え」といったと考える。また、「すい津へいづ」とことさらに杉津の地名をあげているのは、杉津から敦賀への船便のあったことを意味していると考えられる。



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