目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 律令制下の若越
   第三節 都につながる北陸道
    一 官道の役割
      松原駅
 越前国に入る主たる官道は先述のBルート(詳細については三項)であったが、若狭の駅家が弥美駅・濃飯駅の順に記載されているのは、若狭への道を北陸道の支路として捉えていたためと考えられる。ともあれBルートによって越前国に入り松原駅に至る。松原駅が常備している馬数は八疋と、北陸道のほかの駅より多い。これは、敦賀津を控えていたこと、若狭への分岐点にあたっていたこと、東へは交通の難所「木ノ芽山塊」を越えねばならなかったこと、愛発関があることなどで利用頻度が高かったものと思われる。
 敦賀市の松島地区に小字「松原」がある。この付近には「下道」「大道通」「中道通」「四ツ辻」「西中舎」「東中舎」「村中舎」など、駅家とのかかわりを思わせる小字があるので、このあたりにあったのかもしれない。渤海使の来航に備えて、敦賀には松原客館が造営された。『扶桑略記』延喜十九年(九一九)十二月二十四日の記事によると、若狭丹生浦に着いた一〇五名の渤海使が「松原駅館」へ移されているから、松原駅に松原客館が併設されていたことが知られる。そうすると、松原駅の位置は櫛川町あたりに比定され、若狭からの道も井ノ口川沿いにあったのかもしれない。



目次へ  前ページへ  次ページへ