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 第四章 律令制下の若越
   第三節 都につながる北陸道
    一 官道の役割
      葦田駅
 表に「若狭国三方郡葦田駅子三家人国K御調塩三斗」、裏に「黒米一斗一升」と記した木簡(写真68)が平城宮跡で発見され、三方郡に葦田駅があったことがわかった。ところが「葦田駅」という駅家は『延喜式』、『和名抄』(高山寺本)ともにみられない。葦田駅はどこにあったのであろうか。
写真68 木簡(木71)

写真68 木簡(木71)

 挟小な平野の若狭国において現在の国道二七号線は、ほぼ古代官道を踏襲していると考えられる。国道二七号線上で計測すると、後述する松原駅に近い敦賀の国道八号線との交点から、弥美駅のある美浜まで一七キロメートル、美浜から濃飯駅候補地の一つである平野まで二七・五キロメートルであり、後者の駅の間隔が開きすぎている。この二駅間にもう一駅あれば、厩牧令の規定に合致するのである。また、このルートは駅を置けないような地勢ではないから、かつてはおそらく「弥美駅」の次にもう一駅あったものと考えられる。それがこの葦田駅ではなかったか。『延喜式』の写本はこの一駅を落としたものか、南海道のように支路の駅家を廃止した事実から、北陸道の支路にあたる若狭道では「葦田駅」を廃止したのかも知れない。『和名抄』(大東急記念文庫本)には、三方郡に「駅家郷」が記されている。この郷は「葦田駅」の駅戸を中心とした郷であったと考えてはどうか。この木簡にある「三家人」を名乗る人物をほかの木簡でみると、遠敷郡に多く、三方郡では能登郷にみられる。能登郷は遠敷郡界の倉見峠以北の能登野一帯に比定される。
「駅家郷」は能登郷に隣接した地域にあったものと考えられる。三方町横渡付近に「葦田駅」を比定できないだろうか。ちなみに、国道二七号線と並走するJR小浜線では、美浜駅が「弥美駅」付近に、新平野駅が「濃飯駅」近辺に、十村駅が「葦田駅」比定地の近くに位置し、古代の駅と現在の駅の所在が符合する点興味深い。『万葉集』に「若狭なる 三方の海の浜清み い往き還らひ 見れど飽かぬかも」(七―一一七七)とあるように、三方湖の美しい景観を観賞できた官道は、付近の地形から判断して湖の東にあったことがうかがえる。弥美駅からは、東の椿峠を越えて海岸線沿いに佐田から東に進み、関峠を越えて越前国に入るのである。



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