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 第四章 律令制下の若越
   第二節 人びとのくらしと税
    三 人びとのくらし
      浮浪と逃亡
 律令国家は人びとを戸籍・計帳に登録し、班田収授を行うとともに租・庸・調以下の租税の賦課を行った。そうした租税の賦課は各人の登録地、すなわち本貫地でなされることになっており、そのため律令国家は人びとが本貫地から離れて他の土地に移住することを原則として禁止した。しかし、実際には本貫地からの離脱、すなわち浮浪・逃亡(律令では本貫地を離れていても課役を納めるのが浮浪、納めないのが逃亡とされているが、実際には両者の区別はあいまいである)は跡を絶たなかった。こうした浮浪・逃亡は、一般には貧窮した班田農民が重い租税負担から逃れるために行ったものとされているが、浮浪・逃亡者は比較的富裕とみられる戸からも出ており、計画的な移住のために本貫地を離れる場合も浮浪・逃亡とされたようである。このように当時はさまざまな理由で本貫地を離れる者が少なくなく、本貫地において租税を徴収するという律令国家の基本政策は次第に維持し難くなっていった。このため、政府は霊亀元年(七一五)に、三か月以上逗留するものには現地で調庸を輸さしめ、天平八年には無貫の浮浪人を現地の戸籍に編付することを停め、別の名簿に録して調庸を出させることにした。若狭国三方郡竹田里から浮浪人の調が出されているのはこうした政策の結果であり(写真60)、こうして戸籍で把握される公民身分とは別に浮浪人身分が形成されていくのである。
写真60 木簡(木46)

写真60 木簡(木46)


表31 「山背国愛宕郡某郷計帳」

表31 「山背国愛宕郡某郷計帳」
 「山背郷計帳」にはこうした逃亡者がA戸に三人、B戸に一人みえている。B戸の逃亡者の姓名は後欠のためわからないが、A戸のそれは江沼臣族色取、酒人部足国、品治部衣麻呂の三人で、逃亡年次はそれぞれ天平九年五月、同九年四月、同七年五月となっている。彼らの逃亡の理由や逃亡先は不明だが、こうしたことはこの地でも人びとの移動が少なからずなされていた様子を示すものであろう。
 「山背国愛宕郡計帳」にはこうした逃亡の注記が数多くみられる。「愛宕郡計帳」は、神亀三年の「出雲郷計帳」と天平五年の郷里未詳の「某郷計帳」(文五)が残されているが、ともに残存するのは二〇数戸分のみである。これらの計帳によれば、出雲郷は出雲臣氏が圧倒的に多数を占め、数多くの下級官人を輩出し、さらに半数近くの戸が奴婢を所有するなど、在地豪族層あるいは有力農民層が多数居住する地域だったようである。これに対し某郷は下級官人も奴婢を持つ戸もほとんどみられず、一般農民層中心の地域であったと考えられる。
 さて、「愛宕郡計帳」の逃亡注記はたんに「逃」とあるもの、「越前国」というように逃亡先だけのもの、「和銅五年逃」というように年次のあるものなどさまざまである。表31は注記にみえる逃亡先をまとめたものである。これによると出雲郷が西国中心に各国にわたっているのに対し、某郷の方は越前国が圧倒的に多い。逃亡先はその多くは国名しか注記されていないが、なかには郡名をも記すものもあり、越前国では丹生郡・坂井郡がそれぞれ一例ずつみえている。東大寺の諸荘園の設置にみられるように、当時越前国では大規模な田地の開拓が進行し、大量の労働力が要求されたと考えられるのだが、某郷の計帳に逃亡先として越前国が多くみえているのは、あるいはこうしたことと関係するのかもしれない。そして、この推定が正しいとすると、越前国への逃亡者がいずれも出雲郷ではなく、一般農民層中心の某郷からであったことは、荘園の開発のために他の地域から集められた労働力の多くは、そうした階層出身者であったことを示すものとなろう。
 浮浪・逃亡の要因はさまざまであり、したがって本貫地を離れた人びとのその後の状況も多様であった。天平宝字三年(七五九)には、坂東八国および越前・能登・越後などの国の浮浪人二〇〇〇人が雄勝柵に遷されている。雄勝柵は対「蝦夷」戦争の最前線基地であり、そこに越前国から多くの浮浪人が送り込まれたのである。また『日本霊異記』には次のような説話が載せられている(学六四)。称徳天皇の時代、越前国加賀郡に浮浪人の長がおり、浮浪人を捜しては雑徭に駆使し、調庸を徴収していた。ある時、優婆塞の小野朝臣庭麿なるものが加賀郡で修行していたところ、御馬河の里でこの浮浪人の長に見つかり、自分は俗人ではないとの申し立ても聞き入れられず、縛り打たれ労役を強制された。しかし、その浮浪人の長は帰途乗馬のまま宙吊りになり、庭麿に暴行を加えた現場に墜落死した、というのがこの説話の内容である。ここから、当時浮浪人の長なるものがおり、浮浪人の探索と租税の徴収にあたっていたことが知られる。この浮浪人の長は国郡の役人あるいはその代理人と思われるが、こうした長の存在はこの地に浮浪・逃亡者が数多くいたことをうかがわせる。また、彼らに対して容赦なく租税の賦課がなされていたことは、先述したように八世紀後半になると、本貫地ではなく浮浪・逃亡先で租税が賦課されるようになっていた状況を示していよう。このように本貫地を離れて浮浪・逃亡者になっても、そこでもまたこうした律令国家による厳しい収奪がまちかまえていたのである。



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