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 第四章 律令制下の若越
   第二節 人びとのくらしと税
    三 人びとのくらし
      家族の構成
 古代の戸籍・計帳によると、当時は一人の戸主を中心に、いくつかの世帯が集まって戸を形成していたことが知られる。戸に含まれる各世帯は血縁で結ばれているものやそうでないものなどさまざまであるが、こうした数世帯からなる二〇〜四〇人の規模の戸を郷戸とよぶ。これに対し、郷戸を構成する各世帯を房戸とよぶ。
 「山背郷計帳」は現在一断簡しか残されておらず、わずかに二戸の、しかもそのうちの一戸は構成員の半数余りが知られるだけである。現存する「山背郷計帳」は、江沼臣族乎加非を戸主とする戸(A戸)と、江沼臣族忍人を戸主とする戸(B戸)からなり、戸口数はそれぞれ四八と三九である。図63はA戸の家族関係を図示したものである。これによるとA戸は兄弟あるいは叔父・甥関係を中心としたいくつかの世帯によって構成されており、他の戸籍・計帳から知られる家族構成とほぼ同じである。
図63 「越前国江沼郡山背郷計帳」にみえる家族関係

図63 「越前国江沼郡山背郷計帳」にみえる家族関係

 さて、A戸は四八人という多人数で構成されているのだが、当時はこうした郷戸のようないくつかの世帯が集まった大家族が一般的であったのだろうか。この点については以前から議論が分かれており、さまざまな説が出されているのだが、ただ戸籍や計帳にみえる郷戸をそのまま当時の家族とみなすことはできないようである。なぜなら、大宝二年(七〇二)の美濃国戸籍によると、一戸の正丁数はほぼ三、四人に統一され、さらに一戸からほぼ一人の割合で兵士が徴発されるなど、郷戸は徴税あるいは徴兵の単位として人為的に編成された側面があったからである。このように、郷戸は律令国家によっていわば上から組織されたものであって、郷戸をそのまま家族の実態とすることはできないのである。
 では、当時の家族の実態はどのようなものであったかだが、近年における各地の発掘調査の結果によれば、各住居のそれぞれに炉や竃が存在したことが確認されつつある。たとえば、武生市の高森遺跡の三次にわたる発掘調査では、平地式・竪穴式住居が全部で二二軒検出されたが、このうち炉の有無が確認できる二〇軒のうち一六軒に炉が設けられている(図64)。炉や竃は暖をとったり、炊事・食事に用いられるものであるから、当時においては炊事や食事などは各住居ごとになされていたことがわかる。そして、住居の大小にもよるが、だいたいにおいて一つの住居には、夫婦と子供を中心とした小家族が居住していたと考えられるので、そうした一つの住居に住む小家族が、日常的な生活の単位となっていたと考えられる。ただ、そうした住居はいくつか集まって一つのグループを形成する場合が多く、したがって、日常生活の面では小家族が一つのまとまりをもっていたとしても、生産労働面では小家族のいくつかの集まりや、それよりさらに大きな共同体が重要な役割を果たしていたようである。
図64 高森遺跡住居跡の実測図

図64 高森遺跡住居跡の実測図
 次に、当時の人びとは良民と賎民の二つの身分に分けられており、奴婢などの賎民はものとして扱われ自由に売買がなされていた。こうしたいわば奴隷身分の者は人数的にはごく少数であったが、その多くは天皇あるいは中央・地方の豪族のもとに集積されていた。戸籍・計帳をみても奴婢を所有する戸はごくわずかであり、所有者はいずれも在地豪族層あるいは有力農民層であった。
 「山背郷計帳」にはこうした奴がB戸に一人みえている。そして、その戸主江沼臣族忍人は郷長であった。『万葉集』に「楚取る 里長が声は 寝屋戸まで 来立ち呼ばひぬ」とうたわれた郷長(里長)は、戸令の規定によると、「清正強幹者」を充て、職掌は「戸口を検校し、農桑を課殖し、非違を禁察し、賦役を催駈すること」とあり、村落内の有力者が任命されていた。また戸主忍人は、江沼郡の郡司を務めた江沼臣氏となんらかの関係にあったと思われる江沼臣族という姓をもっており、こうしたことから江沼臣族忍人さらには江沼臣族氏が属する階層は、一般農民層よりはやや上のクラスであったということになろう。もっとも、B戸は後欠のため江沼臣族忍人自身が奴婢の所有者であったかどうかは不明だが、忍人を戸主とする戸の成員が奴婢を所有していたことは、当時の奴婢の所有状況にふさわしいものであったといえよう。



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