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 第四章 律令制下の若越
   第二節 人びとのくらしと税
    二 荷札木簡と税
      田名遺跡の性格
 ところで、この木簡が出土した田名遺跡はどのような性格の遺跡であろうか。同遺跡は川によって形成された平野部にあり、同川の西岸に位置する。圃場整備計画区域内で一九八六年度に行われた遺跡範囲確認調査の結果、木簡の出土した田名遺跡村山地区では、古墳時代の溝、祭祀跡とみられる土器集積群、九世紀の柱列、平安時代以降の畦畔遺構などが検出されたが、残念ながら奈良時代前半という木簡の時期に属する明確な遺構は見つからなかった。
図62 三方町田名付近

図62 三方町田名付近

 したがって木簡から少し考えてみよう。木簡にみえる地名は能登里であった。同里は現在の三方町能登野付近に比定されている。そこは同じ三方町とはいえ、田名からは三・五キロメートルほど南へ隔たった地点である。一方田名から二キロメートル東北には三方里の比定地である三方町三方があるし、もし田名と能登野の中間に位置する相田が、平城宮跡出土木簡にみえる「葦田駅」の故地であるなら、田名は能登里には属さないことは明らかであり、おそらくは三方里に属したのであろう。
 荷札木簡が作成された場所については、郡衙段階を重視する説(今泉前掲書)とそれより下位でも書かれたものがあることを主張する説(東野前掲書)とがある。年料舂米木簡についても、前者は郡衙段階で書かれたもの、後者は郡での検収に備えて実際の舂成作業を行った郷(里)・村段階で作成されたものと主張する。ここではその議論を深める用意はないが、いずれにしろこの木簡が出土した所は、郡衙とのかかわりが強いということは確かである。郡衙で作成されたのになんらかの理由で荷に付けられなかったのか、あるいは里段階で作られ郡衙での検収に用いられ、そこで新たな荷札が作成されたため、不用になって捨てられたのか、いくつかの可能性が考えられよう。もっとも、もし荷札が白米を運送する途中で偶然田名で落ちたというのであれば、こうした議論は無意味になるが、同所からは文字は読めないがほかにも木簡が出土しているし、また円面硯、「厨□」「乙家」「大家□□□」「西家□西□」などの墨書土器や天平神護元年(七六五)に初鋳された銅銭神功開宝などの出土も、やはりなんらかの公的施設が近辺にあったこと示していると思われる。
 しかし、田名遺跡(の近辺)に三方郡衙があったと考えることはやや躊躇される。なぜなら、そこは川流域の低湿地であり、郡衙が立地するにはあまりふさわしくない土地だからである。三方郡衙の所在地としては、郡名と同じ三方里のあった三方町三方のあたりがふさわしかろう。そこは雲谷山の西麓に南北に続く洪積層の上にあり、現在も国道二七号線やJR小浜線が通るなど、安定した地勢にある。式内社の御方神社が朝日山に鎮座するが、もとは南南西に約一キロメートル弱隔てた小字「郡神」に祀られていたともいわれていることも注目される。しかも「郡神」の付近の小字「城縄手」などからは「郡厨」「郡」「三方」などと記した墨書土器が出土している。したがって田名遺跡の近辺には、三方の地にあった郡衙と関連したなんらかの施設があったことが考えられよう。同地からは斎串や舟型のような祭祀遺物も出土していることからすると、郡段階での祭祀の場であったかもしれないが、現段階では断定することはできない。田名遺跡の実態がどのようなものであったかは、今後における発掘調査に期待せざるをえない。



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