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 第四章 律令制下の若越
   第二節 人びとのくらしと税
    二 荷札木簡と税
      三方町田名遺跡出土の荷札木簡
 荷札木簡を用いて税を考えてきた最後に、特筆したいのが若狭で出土した荷札木簡である。三方町田名に所在する田名遺跡から、一九八六年度の発掘調査で三点の木簡が出土した。そのなかに次のような荷札木簡が一点含まれている。都城遺跡でなく、荷札の地元でそれが出土することはきわめて稀であり、貴重な史料である。
 「<  若狭国三方郡<能登里中臣広足一斗 私部首宇治麻呂一□<■■■■■■■■□  □□[竹田部カ]首□麻呂一斗三家人□ □一斗右五斗>」(木補六七)
 これは三方郡能登里の中臣広足ら五人が、一人一斗ずつ合計五斗を出したことを示すものである。都城遺跡ではなく、地方の遺跡からこうした荷札木簡が出土することは珍しく、貴重な事例である。ただこの木簡には、何を出したか品名を書いていないし、税目も記していない。したがってその内容を十分に理解することはできないが、五人分をまとめている点など注目すべきものである。
図61 木簡実測図

図61 木簡実測図

 まず品名について考えると、一つの可能性として若狭に多い塩があげられよう。しかし塩の場合、若狭では調として出しているが、奈良時代では一人三斗であり、五斗の例は「若狭国三方郡耳郷中村里<物部□万呂御調五斗」(木五一)の一例しかない。
 これは塩とは書いてないが、若狭の調はすべて塩なので、そう推測しているものである。したがって本木簡の五斗の場合、まったく否定することはできないが、調とも書いていないので塩の可能性は小さいと言わざるをえない。
 むしろ五斗という量に注目すると、若狭の木簡にいくつか五斗を単位とするものがある。それは「玉置郷伊都里<舂白米五斗>」(木四八)と「・若狭国遠敷郡<野郷土師小□白米五斗> ・天平勝宝□ □」(木補一四)であり、越前木簡にもみえるところである(木八五・木補五八)。こうした事例を考慮すると、この木簡もこれらと同じく白米の荷札である蓋然性のほうが高いのではなかろうか。 この場合の白米が年料舂米のことであることは先にみたところである。
 しかし、これまで五人分をまとめて出した白米荷札は見つかっていない。年料舂米の貢進主体には、先にみた若狭の二例のように、個人の場合と郷里の場合とがある。そしてもう一つ、他国の例ではあるが、「・蛭田郷(遠江国敷智郡)中□〔寸カ〕里・五戸物部真呂五斗」「・(丹波国)氷上郡井原郷上里赤搗米五斗 ・上五戸語部身」「・播磨国赤穂郡大原□ ・五保秦酒虫赤米五斗」のように、米木簡に五戸・五保の記載がある場合がある。これらはいずれも年料舂米とみられているものである。後二者は赤米であるが、それらは平城宮の造酒司で用いられた造酒用の米である。これらの五戸・五保を記した米木簡は、五戸・五保が連帯責任で米を舂くことを割当てられ、舂いた米を出したことを物語るものである(東野治之『日本古代木簡の研究』)。
 ところで、若狭にも五戸の記載のある木簡がある。それは「少丹生里<米七斗秦人老五□〔戸カ〕>」(木三八)である。この米は「庸米かもしれない」としたが(木三八解説)、先のような例からすると年料舂米の可能性もあろう(東野前掲書)。こうみてくると、本木簡に名を記す五人はその人数に注目すると、五戸・五保を構成する人、おそらくは戸主達ではなかろうか。これまでに見つかっている五戸・五保木簡には、五戸・五保とともに一人の個人名を記している。それはある五戸・五保に属する一人の個人(それは保長であろうか)が、割当てられた五斗の白米を出したことを示すが、この場合は五人で五斗を出しており、これまでの事例とは異なっている。おそらく五戸・五保全体として五斗出すよう命じられた結果、各戸主の名を記したものであろう。



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