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 第四章 律令制下の若越
   第二節 人びとのくらしと税
    二 荷札木簡と税
      対「蝦夷」戦争への徴発
 和銅二年九月二十六日、遠江・駿河・甲斐・常陸・信濃・上野・陸奥・越中・越後と並んで越前の兵士で、征役五〇日以上を経た者には、復一年を与えるという措置が取られた。この征役はこの年三月の陸奥・越後の「蝦夷」の「野心ありて馴れ難く、屡良民を害す」という状況に対して取られた征討行動のことである。そこでは遠江・駿河・甲斐・信濃・上野・越前・越中という国ぐにの人を徴発し、陸奥鎮東将軍・征越後蝦夷将軍を任命し、「蝦夷」を攻撃した。七月にも「蝦狄」を討つため兵器を出羽柵に運んでいることから、まだ戦闘は続いていたと考えられる。さらに同月、越前・越中・越後・佐渡の四か国の船一〇〇艘を征狄所に送っている。
 八月二十五日になると、征蝦夷将軍・副将軍が入朝し、優寵を加えられたが、それは「事畢」ったためであった。「事」とはもちろん「蝦夷」征討である。五か月かかって律令政府はようやく勝利することができたのである。この戦後の措置が先の復一年である。復とは税の減免のことであり、兵はすでに歳役(庸)・雑徭を免除されているから、ここでさらに調を免除することにしたのであろう。
 こうした「蝦夷」との戦闘にあたって越前は兵の供給源とされたのであった。そしてまた兵以外の点でも、越前を含む北陸道が対「蝦夷」戦争に果たした役割は大きかった。たとえば霊亀二年(七一六)九月、陸奥国置賜・最上二郡と信濃・上野・越後とならんで越前の諸国から各一〇〇戸を出羽に付けている。翌養老元年二月に、信濃・上野・越前・越後の四か国の百姓各一〇〇戸を出羽の柵戸に配したというのは、前年の措置が完了したことを示すものであろう。養老三年七月にも東海・東山・北陸三道の民二〇〇戸を出羽柵に配している。天平宝字三年九月には、坂東八国のほか越前・能登・越後など四か国(一国の名は不明)の浮浪人二〇〇〇人を雄勝柵戸にしている。さらに延暦七年(七八八)三月には、東海・東山・北陸道に軍粮(糧)を七月までに陸奥へ転運するよう命じているが、これは来年「蝦夷」を征するためであった。そのほか、天平宝字三年(七五九)九月には新羅遠征計画のために北陸道諸国の八九艘をはじめ、山陰・山陽・南海道を含め、全体で五〇〇艘の船の建造を命じている。海を通して東北地方に近く、新羅にも相対する越前はしばしば征討のための負担がかかってきたのであった。



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