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 第四章 律令制下の若越
   第二節 人びとのくらしと税
    二 荷札木簡と税
      兵士役
 兵士役は正丁が負担する労役で、軍防令兵士簡点条によれば、「同戸の内に、三丁毎に一丁を取れ」という規定である。しかし天平十二年「越前国江沼郡山背郷計帳」(公四)によると、戸主江沼臣族乎加非の戸では房戸主で三七才の江沼臣族人麻呂が兵士になり、戸主江沼臣族忍人の戸では戸主の弟で四二才の江沼臣族荒人が兵士であった。前者の戸は全戸口数四八人、うち課口一〇人、そのうち正丁八人(ただし三人は逃亡している)、後者の戸は全戸口数三九人、うち課口一二人、そのうち正丁九人であったにもかかわらず、ともに一人ずつしか兵士を出していないことからすると、軍防令兵士簡点条の規定とは異なり、各戸から一人ずつ兵士を出すという原則があったといえよう。
 兵士には年限規定はない。したがっていったん兵士になると、いつそれから解放されるかわからない。兵士は各国に置かれた軍団に登録され、大毅・少毅・校尉などの軍団の役人の統率下に入り、訓練を受けた。そして国府をはじめとする国内の要衝の地の警備にあたった。越前ではとりわけ愛発関が注目されよう。愛発関については第三節で詳述されるが、三関の一つとして重要な役割を果たしていたから、その警備は越前の兵士にとって最重要な任務の一つであった。
 兵士はこのような国内での勤務のほかに、都と北九州での任務につくこともあった。前者を衛士といい、後者を防人とよんだ。衛士は衛門府・左右衛士府に配属され、宮城や京の警護を担当した。防人は大宰府の防人司の下に入り、西海の防備にあたった。衛士・防人の年限はそれぞれ一年、三年とされてはいたが、実際には守られないことが多かった。衛士の年限については前の仕丁の項でみたように、養老六年二月に三年という期限が設けられたが、これはきわめて長期間にわたって衛士の交替がなく、そのため逃亡する者が跡を絶たなかったために取られた措置である。
 このように兵士役は正丁を家から長期にわたって奪うものであり、そのうえ糒・塩という食糧、弓・征箭・胡・大刀・刀子などの戎具は兵士自らが備えなければならなかった。これは大きな負担であった。
 なお養老三年十月、諸国の軍団・兵士の数を減らす措置が取られたが、この時志摩・若狭・淡路の三国は兵士そのものを停止した。これは三国の規模が小さく、兵士制の維持が困難であったことによるのであろうかとみられている。その後天平十一年五月には、三関国や陸奥・出羽・越後・長門・大宰府管内の諸国を除いて、兵士は全国的に廃止された(『類聚三代格』延暦二十一年十二月太政官符)。三関国とは伊勢・美濃・越前であったから、越前は兵士役が変わらずにかけられていたことになる。しかし天平十八年十二月には諸国の兵士徴発を復活している。若狭の兵士役もこの時、復活したのであろう。



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