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 第四章 律令制下の若越
   第二節 人びとのくらしと税
    二 荷札木簡と税
      仕丁
 都の各官司での雑用に従事するため、五〇戸すなわち各郷(里)ごとに二人を出すという力役である。二人のうち一人は立丁という実際の労役に従事する者、一人は廝丁といって立丁のために食事を用意するものであるが、実際には両者とも同じような労役に服しており、その区別はやがて消滅していった。
 また都で働く期間は養老賦役令仕丁条によれば三年という規定であったが、養老六年二月に三年交替にするという詔が出されていることからすると、大宝令ではこの規定はなかった可能性が強い。
 なおこの三年交替制は衛士にも適用されたが、こうした措置をとった理由は、「諸府の衛士、往々偶語(相談)して、逃亡禁じ難し。しかる所以は壮年にして役に赴き、白首(白髪頭)にして郷に帰る」(『続日本紀』養老六年二月甲午条)という事態があったためである。仕丁についても同様であったろう。
 事実、和銅二年十月には、畿内や近江の百姓が浮浪および逃亡の仕丁などをかくまい、駆使しているという状態が指摘され、禁止されている。このほかにも仕丁の逃亡を語る史料は多い。
 長期間故郷とは隔絶した都に留められ、朝廷での労役に従事させられることは、耐え難いことである。国もとの家族にとっても、大事な働き手を奪われることになる。仕丁は農民にとって大きな負担であった。
 



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