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 第四章 律令制下の若越
   第二節 人びとのくらしと税
    二 荷札木簡と税
      若狭国遠敷郡青郷(里)の贄
 この青郷の贄については、『東大寺要録』八の天平勝宝八歳五月二十二日勅(編一六七)に「大膳職の江人、近江・若狭・紀伊・淡路・志摩等の国、久代已来毎月常に御異味を貢供す」とあることから、宮内省大膳職所属の漁民である江人の一部が若狭とりわけ青郷にいたとみる考えもある(狩野前掲書)。養老令の注釈書である『令集解』によれば、大膳職所属の雑供戸について、釈説が引く「別記」は「鵜飼三十七戸、江人八十七戸、網引百五十戸(後略)」とする。近畿各地の鵜飼・漁民が雑供戸に組織され、贄の貢進にあたっていたのである。しかし、先の勅は、江人と近江以下を区別しているようであり、これをもって若狭に江人がいたとは判断しがたい。むしろ別と考える方がよかろう。
 江人ではないが、青郷(里)は贄を貢進する所とされていたのである。それにはなんらかの前史があるのであろうが、具体的にはわからない。同じような位置づけを与えられている所には、参河国播豆郡篠島・析(佐久)島の海部がある。
 「<参河国播豆郡篠嶋海部供奉三月料御贄佐米楚割六斤<」
 「<参河国播豆郡析嶋海部供奉八月料御贄佐米楚割六斤<」
のような、両島の海部が主に佐米(鮫)を月料の贄という形で、それも奇数月は篠島、偶数月は析島が貢上したことを物語る荷札木簡が、平城宮・京跡でこれまでに一〇〇点程度見つかっている。ここでは海部集団が贄を貢上したのである。その一方では、
 「<参河国播豆郡□嶋□部□調小凝六斤」
という調の木簡も見つかっている。調を貢上する時は個人が主体となるが、その一方で集団として贄を貢上するように位置づけられていたことがうかがえるのである。
 青郷(里)についても同様なことがいえると考えられる。同地でも、
 ・「若狭国遠敷郡<青郷秦人安古御調塩三斗>」
 ・「   ■■■■   」(木補三五)
のように個人による調貢進が行われる一方で、郷(里)として贄の貢上を行っているのである。ただし郷(里)が主体といっても、実際の備進にあたっては特定個人に割り当てたのではなかろうか。それがfにみる「秦人大山」であろうし、またd「氷曳五戸」のように郷のなかの一部の戸に作らせることもあった。この五戸は、一郷(里)五〇戸のなかの五戸で組織される五保という隣保組織のことであろう。eの「田結五戸」も同様に考えられよう。
 先に例を挙げた参河国の両島の海部においても、
 ・×豆郡析嶋海部供奉八月料御贄佐米楚割六斤<」
 ・ 海部古相佐米             <」
と個人名を記したものがある。賦役令調絹条によれば、調として魚の楚割を出す場合、正丁一人あたりの量は五〇斤である。これに比較すれば六斤は少ない量であり、漁民一人分に相当しよう。すなわち、海部古相という個人名は、実際にその佐米楚割を準備した人を示すものと考えられよう。貢進主体はあくまで海部集団であるが、実際は集団的漁による備進ではなく、個人に割り当てて準備したとも考えられるのである。
 ところで文永二年(一二六五)「若狭国惣田数帳案」(東寺百合文書『資料編』二)では、「春宮御厨」と注記された「青郷五十九町三百廿歩」がみえる。これは青郷の贄貢進の伝統を引くものといえよう。贄を出す郷には、青郷に隣接する子生川流域の木津郷、高浜町車持にあたる車持郷もある。遠敷郡の青郷を中心とした地域は、贄を貢進する地域として特別の位置を与えられていたことが、このことからもうかがえよう。



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