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 第四章 律令制下の若越
   第二節 人びとのくらしと税
    二 荷札木簡と税
      若狭の贄
 律令には何の規定もないにもかかわらず、現実には調庸と並んで広汎に行われ、食料品を収取していた税に贄がある。それがわかったのは、藤原宮跡や平城宮・京跡から大量に贄木簡が出土したことによる。そのなかに若狭のものもいくつかある。しかし、越前の贄木簡は一点も見つかっていない。ここに同じ北陸道に属しながら、若狭と越前の大きな違いがある。
 贄については律令の説明から始めることはできないので、木簡をみることにしよう。
写真57 木簡(木43)

写真57 木簡(木43)

写真58 木簡(木補20)

写真58 木簡(木補20)

 a 「<若狭国遠敷郡<青郷御贄貽貝一>」(木六四)
 b 「青郷御贄伊和志五升」(木六五)
 c・「<若狭国遠敷郡青郷御贄海細螺一
  ・「< 小野里           」(木補二三)
 d・「<若狭国遠敷郡青郷御贄鯛鮓一
  ・「<氷曳五戸          」(木補二六)
 e・「青郷御贄鯛五升」
  ・「田結五戸    」(木補二八)
 f・「<若狭国遠敷郡<青里御贄多比鮓壱><」
  ・「< 秦人     <」(写真57)
g・「<若狭国遠敷郡木津郷御贄貽貝鮓一
 ・「<『木津里』           」(写真58)
h 「<若狭国遠敷郡車持郷御贄細螺一」(木補三〇)
i 「<若狭国三方郡御贄宇尓一斗」(木補三二)
 ほかにも六点の贄木簡が出土している。これらをみていくと、そこには次のような特徴がみられる。(一)遠敷郡が圧倒的に多く、三方郡は二点しかない。遠敷郡のなかでは青郷(里)のものが大半を占める。(二)郡(三方)ないし郷(里、青・木津・車持)が貢進の単位になるのが原則であり、fを除き個人名の記載はない。fにしても個人名は裏に書いてあり、個人負担の調庸木簡の記載様式とは異なっている。(三)品目は貽貝(鮓)・伊和志(鰯)・海細螺・多比(鯛)鮓・宇尓(海胆)・貽貝富也交作(并作、貽貝と海鞘を混ぜて作った鮓か)など海産物に限られる。
 贄は本来、天皇供御の食料であり、新鮮な産物の収取を意味する。「大化改新の詔」では第四条に「凡そ調の副物の塩と贄とは、亦郷土の出せるに随え」との規定がみえ、贄は調に副次的に課せられる物と位置づけられているが、大宝・養老令では贄の規定はない。しかし『延喜式』になると、その規定が宮内省式・内膳式に記されるようになる。それらによれば、贄には諸国所進御贄(内膳式では諸国貢進御贄)と、諸国例貢御贄の二つがある。前者はその貢進時期により、節料・旬料・年料に分けられ、儀式に用いられる部分が多かった。一方、後者は内裏の贄殿に収納され、供御物とされた。また収取形態としては、特定の御厨による備進、調物の交易による備進、正税の交易による備進の三形態がある。
 若狭についていえば、旬料として上下旬七担ずつの「雑魚」、節料として正月三節に一〇担ずつの「雑鮮味物」を、年料として「生鮭・山薑・稚海藻・毛都久・於己」を贄として貢進する。そしてその入手方式としては、旬料は内膳司が課丁一一六人分の調物を受け取り、それを鮮物と交易し、徭丁に運進させるということが『延喜式』内膳司に定められている。
 このような『延喜式』段階の贄の規定、および木簡からすれば、贄は古来あった大王への鮮物貢納の慣行が、令条には規定されないながらも存続し、実際には大きな役割を果たしていたため、『延喜式』では明記されるようになったといえよう。そして、『延喜式』でも調物や正税を用いて贄物を入手し、貢進するという方式と、御厨という特定の機関や人びとによって貢上させる方式があったが、若狭の贄木簡でもそのような二形態の存在が推測される。
 前者に対応するのがiである。三方郡の贄木簡はわずか二点しかないが、郡が貢進主体になっている。おそらくは郡衙が調物や正税などを用いて宇尓を入手し、貢進してきたのであろう。
 それに対し、若狭で最も特徴的なのが後者に対応するとみられるa〜fの遠敷郡青郷(里)の贄木簡である。若狭の贄木簡は、g〜iのようなわずかな例外を除いて、この青郷(里)に集中している。したがって青郷(里)は、贄貢進のうえで特別な位置づけがなされているといえよう。



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