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 第四章 律令制下の若越
   第二節 人びとのくらしと税
    二 荷札木簡と税
      藤原宮時代の調塩
 なお、平城宮跡出土木簡にみえる調塩の正丁一人あたりの量は、さきほど三斗と述べたが、大宝令(七〇一)以前の段階の藤原宮跡出土木簡では二斗になっている。この二斗から三斗へという変化は、一人あたりの負担量の変化であるのか、それとも荷造り単位の変化であるのか未詳だが、ほかの品目で負担量の増大する例は今のところ確認できないので、ここでは一応後者と考えておく。
 藤原宮跡出土木簡でも若狭の調はすべて塩であり、すでにこの段階から若狭は調塩の国と位置づけられていたことがわかる。それに対応するのが岡津式製塩土器である。それは七世紀末に比定され、小浜市岡津遺跡で見つかったものである。そしてそれは浜UB式(新)よりも大きく、船岡式土器に先行するもので、時期的に律令制確立期に対応するものといえる。浄御原令段階からすでに、国家的主導により塩の生産が行われていたが、大宝令段階でそれが一段と進み、それに対応した生産方式として、大型の船岡式土器が出現し、規格的な敷石炉でそれを用いた生産が行われたのである。



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