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 第四章 律令制下の若越
   第二節 人びとのくらしと税
    二 荷札木簡と税
      若狭の製塩遺跡
 さて、塩が収取されたからには、その製造が問題になるが、若狭ではこれまでに多くの製塩遺跡が見つかっている。大飯町大島の浜遺跡・吉見浜遺跡、小浜市岡津の岡津遺跡、同市阿納の阿納塩浜遺跡など、若狭湾の沿岸部全体にわたり、一九九一年現在六九か所の製塩遺跡の分布が知られるに至っている。この数字は今後も増加し続けるであろう。いかに若狭で活発に製塩活動が行われていたか、古代若狭の人びとにとって、製塩活動の占めた意味の大きさをうかがわせるものとなっている。
写真55 岡津遺跡の船岡式製塩炉跡

写真55 岡津遺跡の船岡式製塩炉跡

 古墳時代の製塩遺跡については、第二章第三節で述べられているが、最古の製塩土器である浜T式の年代は、四世紀末から五世紀前半に位置づけられている。それを出土する遺跡は、若狭中央部の浜遺跡・阿納塩浜遺跡・堅海定元遺跡の三か所のみである。これに対し、五世紀後半ごろから六世紀前半に属する浜UA式土器を出土する遺跡は、一七か所に増加し、さらに六世紀後半の浜UB式(古)、七世紀代の浜UB式(新)土器の時代のものは二九か所と一層の増加がみられる。
 若狭における塩生産の歴史のなかでの大きな画期は、船岡式製塩土器の時期に求められる。それは八世紀代に位置づけられており、遺跡の数はそれ以前と比べて急激に増加し、しかも規格的な敷石炉が設けられ、かつ製塩土器はきわめて大型になる。その前段階の七世紀代に属する浜UB式(新)製塩土器が二〇〇〇t前後の容量であったのに対し、一〇〇〇〇tに及ぶものも現われる(『資料編』一三)。これは製塩業の若狭における自生的発展とは考えがたい。律令制の成立により、若狭が塩を生産する国として位置づけられ、それに対応した製塩事業の国家的改革が行われたことを示すものというべきであろう。ミヤケ段階から律令制の時期になり、若狭の塩生産は新たな段階に至ったのである。
図59 岡津遺跡船岡式製塩土器の実測図

図59 岡津遺跡船岡式製塩土器の実測図

 右のような沿海部の製塩遺跡で塩の組織的生産が行われていたと考えられるのであるが、海から離れた所に住む人のなかには、農業にのみ従事する人、あるいは漁業はしても製塩はしないという人も多かったことであろう。そういう人も含め、調として塩を出させることになっていたのである。はじめに調はその国の産物を出すと述べたが、それは住民の実際の生産状況をそのまま反映しているのではなく、むしろ国家の必要にもとづいて、品目の指定を上から行っているのである。若狭はその極端な事例といえよう。
 したがって、そこでは国郡内において調整を図る必要が出てくる。すなわち、塩を生産しない人は、それを購入あるいは交換などによって入手しなければならなかった。あるいは想像をたくましくすれば、国や郡の監督下に製塩作業が進められ、そこに人びとが動員されて作業に従事し、できあがった塩をその人の分の調塩として出すということが、行われたというようなことも考えられよう。
 先にみたような八世紀における船岡式製塩土器の大型化、製塩遺跡の急増、規格的な敷石炉などは、若狭における製塩が自生的に発達したものではなく、律令国家の要請にこたえるために、権力的に上からもたらされたものと理解すべきものであろう。したがって、そこにおける製塩活動自体、国郡側の主導によって進められた可能性が大きいといえよう。四方を山に囲まれた小浜市大谷の八幡前遺跡で船岡式製塩土器が見つかっているが、そこから三キロメートルほど北へ向かえば、志積・阿納・田烏などの製塩遺跡が点在する海岸部に出る。しかも阿納塩浜遺跡からは、八幡前遺跡出土のものとまったく同じ製塩土器が見つかっていることは、内陸部から沿海部へと製塩土器を供給したことを物語るものである(『わかさ宮川の歴史』)。これも若狭における製塩が組織的に行われたことを意味すると考えられよう。
  



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