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 第四章 律令制下の若越
   第二節 人びとのくらしと税
    二 荷札木簡と税
      若狭のミヤケ
 木簡に記された人名をみてみると、三家首・三家人のようにミヤケにちなむ氏名をもつ者が多くいる。しかも遠敷郡の前身である小丹生評には藤原宮跡出土木簡(木五)によって三家里のあったこともわかっている。これはミヤケが若狭に置かれていたことを物語るものであり、そのミヤケの機能として塩の確保があったといわれている(狩野久『日本古代の国家と都城』)。そしてその伝統のうえに、律令制下においても若狭の調は塩という画一性がもたらされたと考えられる。
写真54 上中町三宅付近

写真54 上中町三宅付近

 そのミヤケの置かれた所は、のちの三家里であろう。この三家里は『和名類聚抄』(以下、『和名抄』)にはみえないが、北川流域の現在の上中町三宅にあたると考えられる。そこは小浜湾からは一二キロメートルほど離れているが、付近には向山古墳群や、中塚古墳・上ノ塚古墳・西塚古墳など、古墳時代中期の前方後円墳が集中する所であり、古くは有力豪族の拠点である若狭の中枢部であった所である。そこにヤマト政権の拠点としてのミヤケが置かれ、若狭の豪族に命じ塩の確保をめざしたのである。その時期は、六世紀末から七世紀初頭ごろのことであろうという(狩野前掲書)。



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