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 第四章 律令制下の若越
   第二節 人びとのくらしと税
    二 荷札木簡と税
      若狭の調木簡
 これまで平城宮・京跡で見つかった若狭の荷札木簡は九三点にのぼっている(一九九二年現在)。これは国別の荷札木簡出土点数としては、きわめて多い方である。そのうち調と明記した木簡は四六点ある。そしてそのすべてが塩であるという著しい特徴がある。
 木簡にみえる調塩の量は大半が三斗である。正丁一人の調塩負担量は、賦役令調絹条でも、十世紀に編纂された『延喜式』主計上の諸国調条でも三斗であり、木簡と符合する。したがって逆に、
  「三方郡弥美郷中村里<別君大人三斗>」(写真53)
という同文の二点の木簡(おそらく同じ荷に付けられていた)のように、税目・品目が記されていないものも、三斗という量から、塩であろうと推定することができる。なお当時の枡は現在の四割程度の大きさであるから、三斗は今の一斗二升(二一・六リットル)程度にあたる。
写真53 木簡(左:木52、右:木53)

写真53 木簡(左:木52、右:木53)

 ここで注目されることは、先にふれたように木簡にみえる若狭の調はすべて塩であることである。『延喜式』主計上には、若狭の出すべき調として、絹・薄鰒・烏賊・熬海鼠・雑・鰒甘鮨・雑鮨・貽貝保夜交鮨・甲瀛・凝菜そして塩の一一品目が定められている。絹以外はすべて海産物であり、海の国若狭にふさわしいものとなっている。しかし、木簡では塩以外の調荷札は一点もない。右の一一品目のなかで、絹は直接それに出した人の名前や年月日を記すことになっていて(賦役令調皆随近条)、木簡は付けられなかったため、木簡にないからといって調絹が貢進されなかったとはいいがたいが、実際に貢進されたことを示す例はみられない。次に、薄鰒以下凝菜までの九品目は、後述するように「貽貝富□并作」や「貽貝鮨」「多比鮨」などが、贄として貢進されていることを示す木簡が出土していることからすれば、奈良時代においては、調ではなく贄の名目で確保していた可能性が高いといえよう。
 こうみてくると、若狭国では調として塩を貢進することが基本であったということができよう。平城宮・京跡出土の木簡で、ほかに調として塩を貢進していることのわかる国には、尾張・参河・備前・備中・周防・紀伊・淡路・讃岐があるが、それらはいく種類かの税物のなかの一つにすぎない場合が多い。それに対し若狭は、国全体として塩を貢進することになっていた。そこに大きな特徴がある。



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