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 第四章 律令制下の若越
   第二節 人びとのくらしと税
    二 荷札木簡と税
      越前の調
 越前の調で平城宮跡出土木簡にみえるのは、銭と波奈佐久である。前者は右にみた若狭の調塩木簡とは異なり、個人名を記さない、次のようなものである。
  ・「<越前国大野郡調銭『□』 」
  ・「<□貫 天平元年十月廿一日」(木八一) 調を銭で出させることは和銅五年(七一二)十二月に始まった。それは銭五文を布一丈にあてることにより、調庸物の銭での納入を認め、和銅元年に発行された和同開珎の流通を図るための策であった。そして養老六年(七二二)九月、伊賀・伊勢・尾張・近江・越前・丹波・播磨・紀伊の八か国について、銭調を出させ始めた。それまでにも銭が流通していた畿内周辺の諸国の輸銭によって、一層流通の拡大を目指したのであろう。
 調銭の貢進主体は個人ではなく、大野郡であった。各個人はおそらく別の物を出し、郡段階で銭に交換して都に貢進したのであろう。そこからは調銭の意図とは逆に、越前での銭の未流通さがうかがわれるようである。事実、同国における東大寺領荘園では物を買う時に、銭ではなく稲で対価を支払っていた(第五章第二節)。
 一方、後者は次の木簡である。
 ・「<越前国丹生郡曾博郷戸主牟儀都百足戸口同広足調波奈佐久一□<〔斗カ〕」
 ・「<           天平十七年四月十八日       <」(写真56)
 曾博郷は『和名抄』では今立郡にある。同郡は弘仁十四年(八二二)六月に丹生郡から分立したのであり、その時曾博郷は今立郡に属することになったのである。曾博郷は今の池田町にあったとみられる。
 波奈佐久とは何かということは、明確ではない。蕪菜とか開花期のはますげ(莎草)などの説がある。後者は漢方薬で、地下の走出枝の先の塊茎は香附子とよばれ、通経・鎮痙などに用いられた。
 木簡はこれだけであるが、『延喜式』主計上では越前の出すべき調物としては、両面・九点羅・糸・絹などの繊維製品の名しかみえない。隣接し、同じように海に面していながら、若狭との違いは歴然としたものがある。『延喜式』段階では、越前は繊維製品の輸調国と位置づけられていたのである。
写真56 木簡(木82)

写真56 木簡(木82)



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