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 第四章 律令制下の若越
   第二節 人びとのくらしと税
    二 荷札木簡と税
      荷札木簡
 平宝字四年(七六〇)九月、今の小浜市遠敷付近にあたる若狭国遠敷郡遠敷郷に住む秦人牟都麻呂は、調という税として塩三斗を納めた。郡の役人が、正しく納められているかどうかを確認した。荷には郷長あるいは郡の役人によって作られた荷札が結び付けられた。そののち、さらに国の役人がもう一度点検した。このようにして国中から集められた税物は、順次当時の都、平城京へと運ばれていった。都に着いたのは十月中のことであった。このようなことがわかるのは、平城宮跡で見つかった木簡によってである。
 ・「若狭国遠敷郡遠敷郷<秦人牟都麻呂御調塩三斗>」
 ・「    天平宝字四年九月 」(木三六)
と表裏に書かれた長さ一五・四センチメートル、幅二・八センチメートルの一枚の木札は、秦人牟都麻呂の出した塩の荷にくくりつけられ、はるばると平城宮まで旅をしてきたのであった。
 日本で本格的な都城が成立した藤原京、それに続く平城京・長岡京においては、日々発掘調査が進められ、そこへ各地からもたらされた税の荷札木簡が多く出土している。とりわけ若狭の木簡は平城宮・京跡で、越前からの荷札は長岡京跡で多く見つかっており、当時の若越に関する貴重な情報を我々に与えてくれる。先の木簡からも当時の地名、住民の名、産物などを知ることができるのである。ここでは主に木簡などによりながら、古代若越の人びとの負担した税についてみていくことにしよう。
 律令制下では、農民は六才になると口分田という田を与えられ、生産の手段を一応与えられたうえで、税を課せられた。税には物で納めるものと力役とがある。そして課税単位から分類すれば、人頭税が中心であった。当時は良民と賎民という身分があり、人頭税は良民の男子にのみ、年令区分に応じて賦課されるものであった。そのような税として、物納の調・庸、力役の雑徭・仕丁・兵士役などがあった。また土地に対しては田の面積に応じて租が課せられた。このように税の種類は多い。これから先、その一つ一つについて説明を加えながら、若越の具体相を木簡などを用いてみていくことにしよう。まず物納の税から始める。



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