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 第四章 律令制下の若越
   第二節 人びとのくらしと税
    一 国郡衙の財政運用
      「越前国義倉帳」
 義倉は、貧富の差に応じて粟あるいはその他の雑穀を収取し、災害や飢疫に備えてそれらを貯積しておくものであり、中国の制度にならったものである。そして、毎年中央に提出した収支報告書が義倉帳で、天平二年の越前国と安房国の義倉帳が正倉院文書として残存している。
図58 義倉穀輸納戸の変遷

図58 義倉穀輸納戸の変遷

 義倉穀の収取は、令の規定によればすべての戸を上上戸から下下戸の九等に分け、上上戸二石から下下戸一斗に至るまで、それぞれ戸等に応じて粟を徴収することになっている(図58)。しかし、貧戸を含めてすべての戸から粟を取ったのでは、窮民を給養するという義倉制本来の趣旨に背くため、慶雲三年に中中以上の戸からのみ粟を取ることになった。その後、一定以上の資産のある戸を九等に分け、それ以外の戸は等外戸として、前者だけを義倉穀の収取対象とすることにした。和銅六年(七一三)格では、資財が銭に換算されて二貫以上の戸を下下戸、一〇〇貫以上の戸を上上戸としている。そして、和銅八年になると、和銅六年格の基準では輸される義倉穀の量が少なすぎるため、資産一貫以上を下下戸とするなど九等戸の範囲が拡大されることになった。天平宝字二年(七五八)になると収取方法は再び変化するが、以上のことから天平二年「越前国義倉帳」に示された義倉穀の収取方法は、基本的には和銅年間以来の方式によったものと考えられる。

表29 義倉帳にみえる戸等と戸数

表29 義倉帳にみえる戸等と戸数
 「越前国義倉帳」の残存部分はごくわずかであるが、そこには一〇一八戸(ここにみえる戸は郷戸ではなくそれをいくつかに分けた房戸。一〇一八戸は、ある郡の房戸の合計数と考えられる)についてその戸等が記されている。その内訳は表29のとおりだが、注目されるのは、下下戸以上の戸はきわめて少なく、一〇一八戸のうち九二〇戸が等外戸だったことである。同様の事態は「安房国義倉帳」においてもみられ、某郡の四一五戸(郷戸)のうち三二七戸が等外戸となっている。もちろん、「越前国義倉帳」の戸は房戸なので、和銅八年格の資産基準とは違った方法で戸の区分がなされたものと思われるが、いずれにせよ慶雲三年格において中下以下の戸を収取対象外とする理由として、貧戸のものを取って乏戸の人に給するのはよくないためとされているように、義倉穀の収取対象外である等外戸に分類されている戸の多くは貧窮戸であったと考えられる。つまり、当時の越前国においては、郡司に代表される在地豪族層および一部の有力農民層が存在したものの、大部分は貧しい一般農民層だったのである。また、大多数の戸が等外戸であった結果として、輸される義倉穀の輸納量および蓄積量はともに少なかったようである。先述の安房国の某郡では、一年間の輸納量が一三石三斗で、蓄積量が八四石三斗六升五合となっている。越前国でも事情は同様であったと思われるが、そうするとこの程度の義倉穀で本来の目的が達成されたかどうかが疑問となる。「安房国義倉帳」によると、某郡では小子・正女・小女二八人に対して一人一升ずつ義倉穀が支給されている。正男の数は不明だが、全体の被支給者の数は数十人程度であったと思われ、救貧機能を十分に果たしたとはとうてい考えられないのである。律令制下の義倉は、中国の義倉制をたんに形式的に模倣しただけのものであり、実質的な意味はあまりなかったのである。



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