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 第四章 律令制下の若越
   第二節 人びとのくらしと税
    一 国郡衙の財政運用
      「越前国郡稲帳」
 大税が穀や頴稲の備蓄を行うものであったのに対し、郡稲以下の雑官稲は国衙の諸経費をまかなうために出挙された稲である。このうち郡稲は雑官稲のなかで最も規模の大きい出挙稲で、名前からは郡の財政をまかなう稲であるかのようにも聞こえるが、実際はその利稲は国衙の雑経費や中央進上物の交易費に用いられた。この郡稲の毎年の収支決算を中央に報告したものが郡稲帳である。
 天平二年「越前国郡稲帳」は最初に一国全体の収支と支出項目が、次いで郡別の収支が載せられている。ただし、郡稲帳の場合も九つの断簡が残存するだけなので不明の点が多い。表27は郡別の収支状況を、表28は現存する断簡から知られる支出費目をそれぞれまとめたものである。

表28 「越前国郡稲帳」にみえる支出費目

表28 「越前国郡稲帳」にみえる支出費目
 表27によると、死んだ伝馬の皮の売却価(「死馬皮直」)と不用になった伝馬の売却価(「不用馬直」)を除けば、収入は郡稲出挙の利稲のみである。本人が死亡すれば貸し付けた稲が免除されることは大税と同じである。
 次に支出であるが、郡稲は大税出挙稲と異なり、収入に比べて支出が多いのが特徴である。敦賀郡や他郡より移入された稲収入を除いた場合の丹生郡のように、収入より支出の方が多い郡もあった。丹生郡は国衙の所在地であるため経費がかさんだものと思われるが、丹生郡には加賀郡から二〇〇〇束の稲が移送されるなど、郡稲は国全体でようやく収支のバランスがとれる状況であった。他の雑官稲も同様な不安定な運営がなされていたと推測され、こうしたことが、天平六年に雑官稲が収支に余裕のある大税に一本化された要因の一つであったと思われる。
 「越前国郡稲帳」は断簡であるため、支出量で約三分の一に相当する支出費目しかわからないが、表28からさまざまな用途に郡稲が用いられていた様子をうかがうことができる。
 @の「元日設宴食料」は、国庁での元旦朝拝儀のあと行われた宴会の費用で、刀郡司および軍毅三二人の食料費として用いられた。給付郡が丹生郡であるのは、もちろん国府が丹生郡にあったためである。Aの「正月御斎会供養料」は、毎年正月八日から十四日まで行なわれる御斎会の費用で、他国の大税帳では仏僧に飯・粥・餅などを供養している。Bの「新任国司食料」は、本来は国司に給与として与えられる公廨田からの収穫があるまで、新任の国司に支給されるものであるが、ここではそれぞれ九月二十九日、十一月十日から年末までの期間支給されている。Cの「伝使食料」は、諸国の郡ごとに設けられた伝馬の利用者に給された食料である。このうち「検舶使」は船舶の検校のために派遣された使と考えられるが、その詳細は不明である。「赴任能登国史生食料」は、新たに能登国史生に任じられた大市首国勝に支給されたものである。伝符の交付を受けた正式な伝使はこの二例のみであるが、以下の三例も他国の大税帳の記載から伝使に準じた使と考えられる。「齎太政官逓送符使」は、若狭国から「太政官符」を逓送(国から国へ送ること)した使であり、越前国に届いた一〇通の符のうち五通がさらに能登国に送られている。「従出羽国進上御馬飼秣料」は、出羽国から進上された馬の飼秣料で、馬を搬送した使への食料支給記事(郡稲帳の欠損部にあったと考えられる)の付記であろう。「向京当国相撲人」は、越前国から京に送られた相撲人である。天平期には七月七日の節会に宮廷で相撲が行われており、全国から相撲人が貢進されていた。Dの「国司部内巡行食料」は、種々の要件で国内を巡視する国司に支給される食料である。他国の正税帳によると、当時の国司は出挙の貸付・収納、計帳の作成、駅伝馬の検校などに際しては、多くの日数を費やして国内を巡行していた。ここの「領催調庸国司」は調庸収取のために国内を巡行した国司であろう。Eの「交易進上物直料」は、中央への進上物を交易により調達するための費用である。中央官司での必要物の多くは調庸として収取されたが、こうして交易して進上されるものも少なくはなかった。なお、篁子は雑穀のミノゴメとされている。Fの「備酒・塩料」は、酒の醸造、塩の購入のための費用で、それらの酒・塩は伝使食料などに用いられるものである。Gの「織錦綾羅料糸直料」は、錦・綾・羅などの高級織物の材料費である。これらの高級織物は調として貢納されてはいるが、実際にはこうして国衙工房で生産されていたのである。



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