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 第四章 律令制下の若越
   第二節 人びとのくらしと税
    一 国郡衙の財政運用
      「越前国大税帳」
 「越前国大税帳」は越前国の天平二年の大税の収支状況を報告したもので、最初に一国全体の収支決算が、次いで各郡の収支決算が記載されている。現存するのは六断簡だけなので、丹生郡と江沼郡についてのみ、その全体の収支状況が知られるだけで、ほかはいずれも部分的にしかわからない。表26は収支状況を郡別に簡単にまとめたものである。
 これによると、収入は租穀と大税出挙稲からなる。令の規定では租は稲で納めることになっているが、先述したとおり実際には穀で納入されている。大税出挙稲は利率五割であるが、本人が死亡すれば貸し付けた稲の返還は免除されるので(「身死人負稲」)、実際の収入は五割を下まわっている。
 次に支出であるが、穀は備蓄にあてられるので支出されていない。租が貯積に適した穀の形態で徴収されるのは、それが備蓄にあてられたためである。とりわけ穀のかなりの部分を占める不動穀は、それを納めた倉庫の鎰が中央に送られており、その使用は厳しく制限されていた。他の正税帳でも穀は、老齢者や貧窮者に救済のため支給される賑給などにごくわずかの量が使用されているだけで、そのほとんどは備蓄にまわされ、その結果いずれの国でも膨大な量の穀が倉庫に蓄えられていた。越前国では天平二年段階で、二二万七〇〇〇余石の穀が備蓄されている。
 稲はその用途の大部分が舂米料で占められている。舂米は稲を舂いて精米したもので、中央の大炊寮に送られ官人の食料にあてられた。舂米料の稲一万二六〇束は米五〇〇石余に相当するが、『延喜式』民部下では越前国が七二四石、加賀国が四六五石を京進することになっている。重貨である舂米は京への輸送の便を考えて、近国あるいは海上輸送可能の国ぐにに課されており、同じ越前国でも坂井郡や江沼郡に比べて、丹生郡の舂米料支出が多いのは同様の事情によるものであろう。敦賀郡の穀や頴稲が他郡より大幅に少ないのも、京に最も近いこの郡から舂米が多く出されていたためと思われる。このほか稲は民部省からの指示によって兵士に支給したり(「給兵士料」)、や糸を買うための費用(「買糸料」)など臨時の費用に使用されたが、全体の支出量は収入よりかなり少ないのが特徴である。そのため江沼郡のように頴稲を保存に適した穀にすることもあった。
 このように大税は、ほとんど使用されなかった穀はもちろんのこと、稲についても収入が支出を大きく上まわっており、毎年大量の穀や稲が蓄積された。天平六年以前の大税は全体としては、租穀を中核として備蓄を行うことをその目的としていたのである。



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