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 第四章 律令制下の若越
   第一節 地方のしくみと役人
     四 若越出身の官人たち
      地方人の中央出仕からみた律令国家
 これまで律令官人社会のしくみを、地方人の中央出仕という側面からながめてみた。その契機はさまざまのケースがあったが、その代表的な例は幸いにも若越の史料で尽くされている。そこで、これまで述べてきたところをまとめ、律令国家とは地方人にとってどのようなものであったかを述べてこの節のむすびにかえたい。
 律令国家は畿内の有力な豪族(貴族)たちが政府上層を独占している国家である。しかし中央貴族の地方豪族に対する支配を過度に強調し、両者が全体として国家という機関をなかだちとして民衆(公民)に対して階級的な支配を行っていたことを見失ってはならない。それでは律令制のもとで地方支配のシステムはどのようにして再生産されていたのであろうか。
 地方の豪族たちが中央の官人の仲間入りをする制度的な道として最も重要で、かつ数的にも多かったと思われるのは、文・武のトネリとして出仕する道であった。律令では武人トネリとしての兵衛が郡司子弟からとられることを規定し、帳内・資人という皇族・貴族の従者について定められているが(ただし越前は関国ということで法的には帳内・資人をとることは禁じられていた)、このほかさまざまな役所の下働きをするトネリが多数存在した。彼らは中央の役所で役人としての事務能力や礼儀、国家や天皇への忠誠心などを学び、ある者は中央で正式の官人として認められ、ある者は故郷に帰って郡司や軍毅などの行政・軍事上の役職についた。
 このほか、学問・技術によって中央政府に認められた人びとにふれたが、それらは数的にずっと少なかったことは容易に想像できる。しかし、そのことをもって、まったくの制度外の特例とすることはできない。実際の例は少なかったにせよ、制度的には出仕の道が開かれていたことも重視すべきではなかろうか。
 最後に仏教を通じて出世する道も開かれていたことを述べた。優婆塞(夷)として仏道修行あるいは労役奉仕する者がそれであるが、「優婆塞舎人」という言葉があったように、広い意味ではトネリと共通するものであった。
 地方から中央へ出仕する道を選んだ人びとを待ち受けていたのは、都城を場とする律令制の文明世界であった。地方にも国府や国分寺のような「出先」が存在したが、古代とりわけ律令制の時代は、この中央―地方の落差の大きさが中央政府による地方支配を保証していた。地方から出てきた人びとのうち、役夫や運脚などはその巨大な文明世界に圧倒されて帰ったであろうし、官人・僧侶・技術者を志した人びとはその文明世界の「ならい」をことばやからだで教え込まれていったであろう。そしてかれらが中央・地方の支配の基礎を担う者として期待されたのである。
 一般に、律令国家は地方豪族などの支配力に依存していたことが強調される。そのこと自体は誤りではないが、一方で地方豪族が民衆を支配するうえで、彼らと中央の文明との接触が不可欠の要素であったことも忘れてはならない。このような支配システムとそのイデオロギーを地方の人びとがどのように克服していったかが次の時代の課題になるのである。



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