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 第四章 律令制下の若越
   第一節 地方のしくみと役人
     四 若越出身の官人たち
      優婆塞として貢進された人びと
 以上、技術や学問、さらには財物というさまざまな手段を用いて、政治的地位を得ていった人びとの姿をみてきたが、律令国家のもとで地方民の地位上昇のルートとして忘れてはならないのは、仏教信仰を通じて僧侶になる道である。彼らは役人ではないので、ここで述べるのは不適当であるかもしれないが、僧侶は律令国家のもとで課役を免除されるなど、役人と並ぶ特権的な地位を占めていたので、あえてここでふれておくことにしたい。
 正倉院文書のなかには、諸国の優婆塞(在家俗人の仏教信者の男性)を貢進するときの文書が多数残っている。それらはときに「仕丁送文」とされるが、優婆塞貢進文とすべきものが多数ある。ただし、正式に出家して沙弥になること(得度)を申請する目的で書かれたものでないものも含まれていることに注意しなければならない(鬼頭清明『日本古代都市論序説』)。

表25 若狭・越前国関係の優婆塞

表25 若狭・越前国関係の優婆塞
 表25は若越関係のものをまとめたものである。これらのうち、秦人広山のものには紙背に異筆で「勘了(しらべおわる)」という追記があり、ほかに多数存在する簡略な様式の優婆塞貢進文と同様の特徴をもつ。それに対して秦人部床足のものには、異筆で「五月」という注記があり、これは労役を前提としたもので、直接得度を目的にしたものではないかもしれない。他の二例はいずれのタイプかはっきりしない。しかし、以上を広い意味での優婆塞貢進文として挙げておいた。
 これらの優婆塞貢進文の特徴は、読経・誦経・浄行などの信仰内容を具体的に記さない点であり、他の諸国の例も含めて天平十七年(七四五)以後にみられる様式である。これらは大仏造立の労働力を得るために、仏道の修行によらなくても、造仏の事業に参加することによって得度を認めるようになった政府の方針転換と関係するとみられている。ちょうど同じころ、それまで民間で布教して政府の糾弾をうけていた行基に対しての態度が変化していった。行基とその集団は池を掘ったり橋をかけたりするなどの活動を行っていたが、その力を政府は利用しようとしたのである。
 先にみたような優婆塞貢進文のなかに本貫を詳しく記すのは、戸籍と照合して誤りのないことを確かめたうえで、課役免除の措置を行うためである。そのための仕事は主として治部省と民部省が関与した。なお、その前段階で申請が出された優婆塞を審査・選考する機関の存在が考えられる(堀池春峰『南都仏教史の研究』上)。



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