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 第四章 律令制下の若越
   第一節 地方のしくみと役人
     四 若越出身の官人たち
      献物叙位の人びと
 八世紀前期から律令政府は、国家の諸費用を肩代わりして私物を献上する者に位階を与えて、民間の私富を導入することを行った。これは一面において売位であり、積極的に行われた時期とそうでない時期があるが、地方の豪族や富豪たちにとって自らの富を政治的地位に結びつける絶好の機会であった。
 八世紀の越前国人としては、宝亀十一年(七八〇)八月、従六位上大荒木臣忍山が軍粮(糧)を運搬したことにより外従五位下を授けられた例がある。この前後の時期、「蝦夷」との軍事的衝突で多数の者が献物叙位にありついているうちの一人である。ただしここで注意されるのは、たんに物を出したことではなく、運んだことがとくに叙位の理由になっていることである。当時の地方豪族が車を献上している例があり(『東大寺要録』)、このような輸送手段を用いて、農民たちを雇って多数の軍粮を運んだことが考えられる。先の場合はどこからどこまでの運搬か不明であるが、かりに越前国から陸奥国鎮守府(多賀城)までとすると相当の距離である。
 そのほか越前国人としては、船木直馬養は神護景雲元年七月に物を献上したことで外従五位下の位を与えられ、翌年七月には越前員外掾となっている。また宝亀五年三月には園池正、天応元年(七八一)五月には若狭守になっている。延暦十三年(七九四)十月、その子である船木直安麻呂のいうには、父は公の事業に用いてほしいと米一〇〇〇石を準備していたが、献上を果たさないうちに死んでしまった(これは先の献上とは別のものであろう)。そこで父の遺志をついで、これを当時造営が開始されていた平安宮の造営料にあてることにしたいと申し出て許されている。
 このような献物叙位のうち、銭については流通促進のうえで障害になるので納銭による叙位は延暦十九年二月に停止された(『類聚三代格』)。この格は献物叙位一般の禁止を意図したものではないが、当時の政府の献物叙位政策の一定の見直しも背景にあるものと思われる。
 また献物叙位政策は、地方豪族に五位(外五位)の位階をもつ者を多数生ぜしめたが、それは彼らに位禄のみでなく、位田・資人・蔭位などの特権も与えることになり、地方民を政治的に一段低く位置づけて支配する律令国家の体制に矛盾を生じさせたと考えられる。そこでとられたのが位階を「借授」する(仮に与える)という方法である。天長二年七月八日の格(『類聚三代格』)によれば、善政の故に国司の推薦にあずかった郡領は位を仮に授けられるが、その場合、相当する禄は与えられても、位田・資人や子への蔭位の授与は認められなかった。この点、八世紀の豪族への献物叙位と異なったあり方がみられる。
 この法によって叙位された者としては、越前国今立郡大領生江臣氏緒がいる。彼は正六位上であったが、公用にあてるために稲十万束を献上したことによって、貞観八年に外従五位下を仮に与えられた。このように郡大領が献物によって正式の位ではなく仮の位を授けられることはほかにも多数みえ、先の格が実行されたことが確かめられる。
 一方、九世紀になって顕著にみられるのは、富豪農民の私富が地域の民衆の救済のために用いられる例である。このようなことは八世紀にもみられたが、多くは郡司の地位にある者であった。承和十四年五月、膳臣立岡は若狭国の百姓であったが、租税の支払えない困窮者に代わって塩五斛・庸米一五二斛(稲に換算して四六〇八束)を支払い、正七位上を与えられている。なお先進地域である畿内では、より積極的に富豪の財物を登録制にしており(『類聚国史』弘仁十年二月戊辰)、富豪による貧民救済を半強制化しようとしている。



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