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 第四章 律令制下の若越
   第一節 地方のしくみと役人
     四 若越出身の官人たち
      大学博士大春日朝臣雄継
 越前出身の学者として史書に名をとどめている者に大春日朝臣雄継がいる。彼はもと春日部という部姓を称しており、越前国丹生郡の人であったが、承和十四年(八四七)に部の字を除いて「春日臣」の姓を賜わり、本籍が平安京の左京に移された(ただしこれ以前に京に住んでいたのであろう。このときの地位は「大学助教」で外従五位下であった)。
 式部省の下には大学寮という役所があった。それは儒学の古典を中心として算術や書道などを教育する、官吏養成のための高等教育機関でもあった。その教官には博士(現在の教授にあたる)、助教(助教授にあたる)がおり、のちに直講(講師にあたる)が置かれた。テキストの中心は儒学の古典であるが、そのなかから主として文学・歴史的な方面を中心に教える紀伝(文章)道が分化し、本来の儒教の経典研究は明経道と称した。
 大春日雄継は大学寮の明経道の教官であった。嘉祥三年(八五〇)五月には博士に昇進し、仁寿三年(八五三)七月には大学博士の地位はもとのままで越中権守に任じられている。おそらくこれは遥任であろう。斉衡三年(八五六)八月に大春日朝臣の姓が与えられている。貞観五年(八六三)二月には治部大輔、三月刑部権大輔、同七年三月伊予権守となるが、いずれも博士の地位のままでの任官である。同十年四月に七九歳でなくなったが、このとき従四位下であった。
 彼のような地方で身分の低いものが明経道教官になる例はそれほどめずらしくなく、任官し出世するにしたがって外位から内位に移り、本籍地を京に改め、貴姓を賜る事例はほかにも多くみられる。その基礎には、平安時代にはいると、中国文化の真髄たる儒教がようやく地域社会にも浸透しはじめたことがある。また、地方卑姓出身者の官界・政界での出世は、当時の門閥的な社会ではむずかしく、彼らは自らの才能を生かして学界での出世をめざしていく動きがあったことも考えねばならないであろう(桃裕行『上代学制の研究』)。
 再び話を大春日雄継にもどして、博士になって以後の活躍をみてみよう。天安二年(八五八)九月には政府高官や陰陽博士などとともに山陵の地の占定を行い、貞観二年二月・十二月には『孝経』を清和天皇に進講し、同三年八月には天皇に『論語』を講ずる侍講をつとめている。同二年閏十月には他の博士たちと当年の朔旦冬至(冬至が十一月一日と重なること。二〇年に一度あり、めでたいこととされて宮中で祝宴などが行われた)をどうするかという議論を行っている。同六年二月には釈奠(儒教の聖人をまつる儀式)で『毛詩』を講じている。同十年二月には山陵の火災に対する対処についてほかの博士らとともに進言を行っている。
 このように有識者として政府の諮問にこたえ、天皇に対する進講役をつとめるという形で高い評価を得ていたようである。先に記したように大学博士のままで中央・地方の官職も兼ねており、そのなかには名目的なものもあったであろうが、地方出身者が自らの才能で官人として出仕していく一つのパターンを、技術官人とは違った形でかいまみることができるのである。
 それでは、知識や技能を特別に有しない場合はどうであろうか。必ずしも中央への出仕とは結びつかないが、次に財力による出世のパターンをみてみよう。



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