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 第四章 律令制下の若越
   第一節 地方のしくみと役人
     四 若越出身の官人たち
      技術官人益田連縄手
 三国真人のようなウジの出自のうえでの例外的な地位を与えられた者、あるいは郡司という地方の行政官職にかかわる一族などでない場合は、地方からの中央への進出は容易ではなかったが、技術や学問の能力によって進出・出世していった場合がまったくなかったわけではなく、越前国でその特徴的な例を検出できる。もちろんその場合も純粋に個人の能力のみによって出世していったわけではなく、地方での地位や中央との関係で何らかの意味で有利な立場にあった者であろう。
 若越出身官人のなかでも最も史料が多く、かつ異彩をはなっているのが益田連縄手である。彼は大工として東大寺などの造営に大きな功績を残した「技術官人」であった。彼が記録のうえで最初に姿を現わすのは天平勝宝八歳で、正六位上の「大工」として「造大殿所」での勤務日数を報告されている(文三六)。「大殿」とは東大寺大仏殿のことであり、彼の下には「少工」として小田広麻呂がいた。勤務日数が報告されるのは、勤務評定の基礎史料になるためである。このようにみてくれば明らかなように「大工」「少工」とは官名であって、今日いう大工とは意味が異なる。律令制のもとでの「大工」は、現在の言葉でいえば大工というより建築家に近い。すなわち実際の工事を行うのではなく、設計を担当し、技術的な観点から工事全体の指揮監督を行う総責任者である。
 益田縄手は大仏殿造営の功績を認められて天平宝字元年(七五七)五月に外従五位下に昇り、最下位とはいえ「貴族」の仲間入りをし、「益田大夫」と称せられた。同八年十一月には外位から内位に転じて一般中央官人と同列の待遇が認められ、翌天平神護元年(七六五)三月には「連」のカバネを与えられた。このように彼は技術者としての名声を高めつつ、律令制の官人社会のなかでも一定の地位を築いていった。そして神護景雲二年(七六八)六月には遠江の員外介に任命されている。これはおそらく実際に現地に赴任したのではなく、国司としての給料を得させるための措置であろう。
 彼の技量を示す一つのエピソードを紹介しよう。天平宝字五年から六年にかけて良弁を最高責任者として石山寺の大規模な造営が行われたが、この工事を当初指導したのは、木工長上(技師長)船木宿奈麻呂であった。ところが彼の指導した部材の寸法が良弁の気に入らなかったらしく、良弁は新たに東大寺から益田縄手をよんできて指導させている(福山敏男『寺院建築の研究』中)。工事の施主と技師との緊張関係、さらに技師の上位にある建築家の権威などが知られて興味深い。



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