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 第四章 律令制下の若越
   第一節 地方のしくみと役人
     四 若越出身の官人たち
      トネリとウネメ
 三国真人のように、氏族そのものが中央貴族に準ずる地位として最初から認められていた例は、継体天皇の地方出身という日本史上非常に特異な事情に伴うものである。それに対して、地方の名望家である郡司の子女が制度的に中央に出仕する道が開けていたことも述べておかねばならない。すなわち男子は兵衛(ツワモノトネリ)として、女子は采女としてである(軍防令)。また、その他の郡司につながる地方の有力氏族の者もさまざまのトネリとして出仕することができた。トネリは厳密な意味で「官人」とはいえないが、官人見習いとして役所に勤務し、はたらきによっては勤務評定をうけて正式の官人になることができた。采女も昇進のチャンスに恵まれれば、位をもつ女官(奈良時代には「宮人」と称した)として後宮に重きをなした。
 越前国出身の采女と思われる者に角鹿直福貴子がいる。『類聚国史』天長五年(八二八)閏三月庚子条によれば、彼女に越前国正税を与えたことがみえる。敦賀直氏が令制以前の国造の系統を引き、敦賀郡領を世襲する譜代氏族と考えられることは先に述べたとおりである。一方、若狭国遠敷郡出身と思われる者に若狭遠敷朝臣長売(長女)がいる(編二二九・二三七)。
 地方から出仕した采女は、中央氏族から選ばれた氏女とともに女孺とよばれる後宮の下級女官(宮人)になることもあった。越前国出身の女孺としては足羽臣黒葛(編二四六・二五六)・江沼臣麻蘇比(編二六二)がいた。
 また「佐味命婦」と称する女官がいた(文一四)。これは越前国丹生郡にいた佐味氏かどうか確定できないが、先にみたように佐味君氏が丹生郡大領・少領になっていたことが確認されるので、丹生郡司より采女として貢進された可能性がある。しかし一方、上毛野佐位朝臣の姓を有する「佐位采女」=桧前部老刀自のことかとする見解もある。また一方、宮人と考えられる佐味朝臣宮がいるが(『続日本紀』宝亀七年五月己亥条など)、これも同一人物の可能性がある。なお佐味氏からは男性の中央出仕の官人も多く出しているが、そのなかには吉備麻呂・宮守・虫麻呂など、越前国司になっているものが多くみえ注目される。
 さて、次はトネリとして中央に出仕してきたと考えられる者たちに目を移してみよう。若越出身者で、軍防令に規定のある郡司子弟から兵衛として出仕した者はみえないが、そのほかの舎人のなかで注目されるのは皇后宮職の系統を引く紫微中台・坤宮官の舎人が多数みえることである。この官司は藤原仲麻呂が権勢を築いていく足場となったものである。
 紫微中台舎人としては、敦賀郡の郡領氏族出身の敦賀直石川(文二〇など)、江沼郡の郡領氏族と関係を有する江沼道足(文二〇)・江沼若足(文二一)・江野靺鞨(『大日本古文書』一三)がみえ、また紫微中台史生として江野古□(『大日本古文書』二五)がみえる。紫微中台の後身である坤宮舎人として、三国真人氏からは三国真人広山(文一八)、三尾氏からは三尾隅足を出している(文五三)。
 なお、のちに東大寺領荘園の経営に活躍する生江臣東人も足羽郡の郡領氏族の一員として中央に舎人として出仕していた可能性が高い(第五章第二節)。



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