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 第四章 律令制下の若越
   第一節 地方のしくみと役人
     四 若越出身の官人たち
      三国真人
 日本の律令国家はウジ・カバネの制度を廃止して成立したのではなかった。ヤマト朝廷の「氏姓」の秩序を前提にして、それを新しい官僚体制に組み込むべく再編していったというのが正しいとらえ方であろう。天武天皇十三年(六八四)に制定された「八色の姓」がまさにその政策の一つである。そして即日に「三国公」など一三氏が八姓第一の「真人」の姓を賜わっている。
 天武朝では、一方で官人の登用・評定のシステムをつくりあげたが、その基準の大きな部分に「族姓」がかかげられている。もちろん個人の能力が無視されていたわけではないが、それは大きな「族姓」という門地の秩序の枠のなかでのことである。この原則は律令法制が整備されていくとともに、律令法の表面からはみえなくなるが、依然として底流に流れている基調であった。いいかえれば律令制社会は、中央貴族が政界上層を独占する門閥社会であり、少数の例外を除いて、地方出身者が中央政界の上層に進出する道は閉ざされていた。そのようななかにあって、三国真人は越前出身の豪族でありながら「真人」という高いカバネを与えられ、それほど高い地位ではないが、中央に進出していった点で注目される。
 ところで、天武朝の族姓改革の対象は一般的には畿内居住豪族に限られていたようである。「真人」姓をおくられた「公」姓者も、すでに畿内に居住していた者たちであろう。事実、三国公麻呂は大化五年(六四九)三月に蘇我倉山田麻呂を勘問する使者としてみえ、また白雉元年(六五〇)正月には白雉の献上儀式でその輿を執っている。しかし、三国真人は、越前国荘園の史料が残っていることにもよるが、越前国坂井郡を本拠とする人びとも多数みえる。また、坂井郡大領になっている者も二名みえるように、地方豪族として勢力を有していた。
 このように天武八姓の最高のカバネを有する三国真人氏は、一方で中央官人、一方で地方豪族として、中央・地方の両方に足場をもつ点でユニークな存在である。三国真人国継が本貫地は右京にありながら、坂井郡に墾田を所有していたことは(寺四四)、そのような三国真人氏の特徴をよく表わしている。
 ところで、このような特徴はここで問題にしている三国真人のほか、坂田(酒人)真人、息長真人などにもみられる。すなわちこれらは他の真人賜姓氏族と異なり、一方で中央官人を出しつつも、中央官界での勢力は微々たるもので、むしろ近江・越前の地方で郡司などの地方豪族としての活躍が顕著である。そしてこれらが共通して継体天皇の皇子または継体の祖のオホホド王あるいはワカヌケフタマタ王の後裔と称しているように、継体と密接に結びついた氏族であるという共通点があることも見逃せない。天武天皇が自らの出自との関係で、押坂彦人大兄―息長―継体系の「皇族」を顕彰しようとしたことは、このような真人賜姓の傾向に現われている。三国命が高向村にあってフリヒメ―オホド母子を養ったように(継一)、継体母方における三国の地の重要性はすでに述べられているとおりであり、三国公の真人賜姓もこの点から考えるべきであろう(継体天皇の系譜については第二章第二節)。
 天平勝宝元年(七四九)四月の聖武天皇宣命(和文で表現され、口頭で宣言される詔)で、三国真人・石川朝臣・鴨朝臣・伊勢大鹿首に特別の恵みの処置をしようとしているが、このような特別の計らいの理由は、これらの氏がこれまでの皇室と姻戚関係を有してきたことからくるものであろう(『三国町史』)。三国真人が、聖武→文武→天武さらに継体へとさかのぼる王統の姻族の筆頭に挙げられたことも、継体母方氏族とすればうなずけるのである。



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