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 第四章 律令制下の若越
   第一節 地方のしくみと役人
    三 地方政治のしくみ
      巡察使と地方行政監察
 これまで国郡の役人やその政治のしくみについて、若越の史料を中心にして述べてきたが、このような地方政治を中央政府がどのように監督していたのかについてふれておきたい。地方豪族である郡司の行政は、中央から派遣された国司によって全面的に監督をうけていたが、国司は地方政治の最高責任者であり、その不正はただちに律令国家の基礎を掘り崩すものであるので、その監督に政府は苦心しなければならなかった。律令国家は成立当初から中国の地方官監察制度にならって巡察使・按察使などを任命して国司などの地方行政を監督させたのはそのためである。
 大宝・養老の職員令では、太政官直属で時に応じて任命される「巡察使」に関する規定があるが、初見は天武天皇十四年(六八五)にさかのぼるので、大宝以前の律令に規定があったのかもしれない。なおこの時の巡察使として、東海・東山・山陽・山陰・南海・筑紫のそれぞれの使者の名がみえるが、なぜか北陸がみえない。あるいはこの時期北陸は国の制度が熟していなかったからか、それとも北陸が若狭と越のみで、越国司の単独の行政区域のようなかたちであったからであろうか。
 北陸道の巡察使の名前が最初にみえるのは、大宝三年正月であり、その後何回か巡察使が派遣されたが、天平宝字四年正月のものが注目される(編一八四)。北陸道には従六位上石上朝臣奥継が派遣されたが、同年十一月の勅では、「巡察使の摘発した田は管轄の官司に命じて土地の多少を量って全輸正丁(課役を全納する正丁)に加給し、もし正丁数が足りない国は乗田(口分田に班給した残りの田)に繰り入れ、このようにして貧しい者のなりわいを続けさせ、困っている人の負担をやわらげよう」と述べているように、このときは隠田摘発を主要な任務の一つとしていた。
 実はこのとき派遣された巡察使が越前国東大寺領荘園関係史料で「天平宝字四年校田朝(駅)使石上朝臣奥継」としてみえ、田地の争いでは東大寺側に不利な決定を下している(寺三四・四四)。これは当時の仲麻呂政権の東大寺領荘園に対する態度を端的に示すもので(第五章第一節)、逆にいえば巡察使の方針は当時の政権の意向を忠実に現地で実行するものであったことがわかる。
 八世紀末以後巡察使の派遣がほとんどなくなる一方、国司の交替を書類で審査する勘解由使が中央に置かれ、また一時期であるが観察使が置かれて地方政治の監督を行った。しかし、しだいに中央政府は地方政治を国司にすべて委任するようになり、国司(守)は中央への規定量の租税などの納入を済ませばよいようになっていく。いうまでもなく「受領」とよばれる徴税請負人化がその行き着く先である。
 さて、巡察使が中央から時々に臨時に派遣されるのに対して、按察使は地方に常駐して監督を行う官職である。養老三年七月に初めて置かれた時、越前国守正五位下多治比真人広成が能登・越中・越後(のちに佐渡も)の諸国を所管とすることになったことからわかるように、越前国守は按察使を兼ねて周辺の国を監督していた。このように常駐することによって巡察使よりきめの細かい監督が期待されていた。しかし、同じ国司が監督を行うので情実がからむなどの弊害が多かったからか、奈良時代を通じてしだいに任命されなくなり、平安時代には陸奥・出羽という「蝦夷」に対峙するような地域を除いてはみられなくなった。
 なお、その他の地方政治監督官のなかで北陸の特色を示すものとして鎮撫使があり、天平十八年四月に中納言従三位巨勢朝臣奈弖麻呂が北陸・山陰両道の鎮撫使に任命されている。この鎮撫使設置の背景としては、国内政治のみでなく、新羅との関係悪化などの国際関係を考慮すべきであるとする見解がある(石母田正『日本の古代国家』)。



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