まず考えられることは、高度な技術をもった中央政府官人を派遣して、技術指導を行う場合である。たとえば、『続日本紀』和銅四年(七一一)閏六月丁巳条にみえるように、大蔵省織部司の技術官人である「挑文師」を諸国に派遣して、錦・綾という高級織物の生産技術指導を行っている。そしてその成果は、早くも翌年七月に、上記の越前・尾張・駿河を含め、二一か国に初めて錦・綾を織らせたということが同じく『続日本紀』にみえることから明らかである。このように急速に技術の伝播が可能であったのは、高級織物が個々の農民によって生産されていたのではなく、国衙工房で集中的に生産されていたからである。
それでは、わざわざ地方に技術移転までして生産させた理由は何であろうか。原料の立地や運賃の節約は決定的な理由になりえない。最も考えられることは、調庸その他として納入できる体制を地方につくっておくことが、律令国家の地方支配の基盤を確立するうえで重要であったからではないだろうか。先に述べたように、錦・綾そのものは個々の農民が生産したのではないが、その地域の民衆に食料を給して国衙工房で働かせるという形で、地方民衆の労働力(技術労働力を含む)を国家の支配下において、貢納生産の基盤を確立しようとしたものと考えられる。
以上、先にみた武器生産ともあわせて結論として述べておきたいのは、その地域の人びとの需要に直接関係ない高度な生産技術が中央政府の指導のもとに導入されてきたこと、それは決して地域の民衆の生活向上を意図したものではなく、律令国家の地方支配の基盤を整備することを目的とするものであったことの二点である。 |