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 第四章 律令制下の若越
   第一節 地方のしくみと役人
    三 地方政治のしくみ
      律令国家と兵器
 兵士の用いる個人的な武器・調度類は自弁するのが原則であったが、一方国衙工房で製作する兵器類もあり、『延喜式』兵部省によれば、若狭国は横刀二口・弓一六張・征箭一六具・胡一六具、越前国では甲四領・横刀一〇口・弓二〇張・征箭三〇具・胡三〇具が年間の生産数として定められていた。これらは一定の規格で生産され、諸国に保管されていたが、毎年生産する兵器各種一つずつが諸国からサンプルとして進上され、その品質を検査されるという制度があり、それは奈良時代にさかのぼる(『続日本紀』霊亀元年五月甲午条)。つまり、国家による直接生産と、中央政府による管理が行われていたのである。
図57 中国宋代の弩

図57 中国宋代の弩

 ところで、律令国家の軍事制度と最も密接な関係のある兵器を一つ挙げるとすれば、それは「弩」であろう。弩は引金で矢を発射できる一種の大型機械兵器で、維持・操作には習熟した技能を要するので、「弩師」という専門の技能職員を置いて彼らが教官となって指導することが必要であった。越前国では寛平七年(八九五)七月にその設置申請がなされ、許可されている(編五六二)。その理由として海防が挙げられているが、同じ理由で他の日本海沿岸の諸国も九世紀を通じて次々に弩師の設置を申請し、許可されていった。これは当時の新羅の海賊の出没などの国際関係と密接な関係がある。なお、「蝦夷」と接する諸国では弩師を置くことの理由として、彼らとの対峙が挙げられている。
 弩は大がかりな兵器であるから、要所に据えつけて防御のために用いるのに適していた。また弩は律令では私に所持することを禁止されており、国家が独占的に管理すべき兵器であり、軍団などの組織的な隊伍と有機的に結びつくことによって威力を発揮するものであった。ただ、軍団が廃止されたのちもしばらくその有効性が認められていたのは、当時の対外的な軍事的要請による。しかし、東アジア世界の国際関係が変化していく十世紀以後その必要性は減じ、また一方では戦法の変化とともに、重装備の兵器から機動的な軽装の武器が主流になるにしたがってその意義は薄れ、忘れ去られていくことになった。
 以上述べてきたことから明らかなように、律令国家は高度な手工業技術の独占により、すぐれた武器を自ら生産し、品質管理を行い、その製作・操作にも官僚制的な教習関係を媒介にして技術の伝播を図っていたことが大きな特徴であるといえる(戸田芳実『初期中世社会史の研究』)。



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