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 第四章 律令制下の若越
   第一節 地方のしくみと役人
    三 地方政治のしくみ
      軍団職員と兵士
 天平宝字二年の「越前国司牒」(写真51)によれば、紫の購入のために奈良の造東大寺司の安都雄足のもとに使が遣わされたが、その使者となった者は「丹生団百長宍人黒麻呂」と記されている。丹生団とは、国府があった丹生郡に置かれていた軍団で、百長とは兵士一〇〇人を統率する「旅帥」という軍団職員の別名である。なお、他国でも国府所在郡に軍団が置かれていたことを示す史料が多い(橋本裕『律令軍団制の研究』)。
写真51 「越前国司牒」

写真51 「越前国司牒」

 軍団とは、律令国家のもとで諸国に置かれた軍事組織である。養老令では公民は正丁三人につき一人が兵士として徴発されることが定められていたが、そのような兵士一〇〇〇人を単位に一つの軍団が置かれることになっていた。その職員としては、率いる兵士の人数に応じて軍毅(大毅・少毅)一〇〇〇人、校尉二〇〇人(二百長)、旅帥一〇〇人(百長)、隊正五〇人(五十長)、主帳(文書事務に携わる)というように定められていた。
 これらのうち、軍毅のみが官人としての昇進のチャンスがあった。軍毅は地方豪族である郡司と近縁の豪族出身者から選ばれることがあり(『続日本紀』霊亀二年五月己丑条)、郡司と同じく「譜代」が問題にされた。おそらく地方行政組織の評制から郡制への切り替えにともない、国造の系譜をひく地方豪族である評司の軍事的要素は軍毅によって継承され、国司がそれを総括的に把握する体制が整えられたと考えられる。のちに、藤原仲麻呂政権のもとで、中央の衛府の有能者を軍毅に任用することがみえるが(『続日本紀』天平宝字元年正月甲寅条)、地方軍事力のより直接的な把握をめざしたものであろう。なお、軍毅に対して校尉以下の人員は兵士から選抜したものと考えられる。
 ところで、軍団の職員が実際に兵士を率いて戦場に赴いた例は皆無に近い。それに対して、最初に述べた史料のように、国司の雑使となっている例は多数みえる(橋本前掲書)。もちろん軍団職員には兵士や兵器の管理などの軍事的職務があったが、国司の手足となって働く側面も重要である。その点で独自の専門的役職でありながら、国衙の雑務を行っていた医師と共通性をもっている。
 ところで、若狭国の兵士は早くも養老三年(七一九)十月に、志摩・淡路とともに停止された。このときは諸国の軍団の職員・兵士の人数の縮小が行われたが、先の諸国は中ないし下のランクの小国であった。その後軍団兵士の制度は、天平十一年五月には三関や陸奥・出羽・越後・長門、大宰管内の諸国を除いて全国的に廃止されたが(『類聚三代格』延暦二十一年十二月太政官符所引)、天平十八年十二月には復活している。正丁による軍団兵士の徴発は公民の大変な負担を強いるものであったので、その軍事的有用性は律令制成立当初から問題になっていたようで、やがて地方の豪族・富豪農民などを中心とした健児の制度に切り替えられていく。
 延暦十一年六月には、軍団兵士制度廃止とともに郡司子弟からなる健児が全国的に定められて定着するが、若狭国は三〇人、越前国は一〇〇人の健児が定められており、『延喜式』兵部省でも同様である。その主要な任務は兵庫・鈴蔵・国府などの重要施設の警護であった。なお、若狭国府に付随していた兵庫の存在を示す史料として、貞観八年(八六六)に若狭国から印・公文を納める倉庫や兵庫が鳴るという異変の報告がなされている例がある(編四九二)。



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