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 第四章 律令制下の若越
   第一節 地方のしくみと役人
    三 地方政治のしくみ
      国医師と国博士
 律令で定められた国衙の専門職員(教官)としては国博士と国医師がいた。国博士と国医師はそれぞれ国ごとに一人いて、前者は国学で学生(主として郡司子弟)の教育にあたり、後者は医学生に医方を指導し、あわせて医療活動を行うことになっていた。選叙令によれば、国博士・国医師はその土地の者を採用するのが原則で、適任者がいない場合は近くの国より任用することが定められていた。しかし、律令制成立当初は地方で人材を求めることは難しかったらしく、国博士は大宝律令施行直後の大宝三年(七〇三)に中央(大学寮学生)からの派遣が認められ、国医師は少なくとも天平期には事実上は中央(典薬寮の医生など)からの派遣によることが多かったらしい。それらの場合、勤務評定などの待遇は、書記官である史生と同等であった。
 越前国の国医師としては奈良時代に二人の名が史料上知られる。一人は六人部東人、いま一人は城上石村である。六人部姓は、ほかに丹生郡水成村の人として六人部浄成がみえ(寺四四)、また長屋王家木簡に丹生郡朝津里および従者里の人にもみえるので(木補四五・四六)、六人部東人は越前国出身の可能性が高い。もしそうであるとすれば、奈良時代の後期には、越前出身でおそらくは中央で医療技術を身につけ、故郷の地で国医師となった者の存在が知られて興味深い。
 彼の医療活動そのものは史料上に残っていないが、国衙の行政に従事していたことを示す史料がある。たとえば天平勝宝元年、国使として東大寺荘園の占定に加わっており(寺三四)、ついで天平勝宝六年には医師としての公廨米(国司の職務にともなう給料)に関する報告がなされている(公五)。
 ところで、六人部東人についてもう一つ注目されるのは、彼は写経の発願を行い、その校生として丹生郡在住の秦嶋主などの越前関係者がみえる点である(文三三)。写経生として参加した左京在住の三尾浄麿も、越前の三尾の関係者であろう。このように都と越前との人的・思想的交流が写経の形をとって結晶したことは注目される(第二節)。
 さて、国博士の方についていえば、時期は下るが天暦五年(九五一)の「足羽郡庁牒」(寺六二)に「擬大領博士」の生江某の署名がある。この博士は国博士のことであり、郡司の擬大領が兼ねているから、この地の出身者であり、八世紀以来の譜代郡司の生江氏がそれに任じられている。越前国では郡司子弟として国学に入学して一定の成績をおさめ、さらに中央の大学寮に学び、教官になる資格をえて故郷に博士として着任した者がいたことがわかる。なお、国博士も地方での教育に携わりつつ、国衙の雑用に従事する場合があった。たとえば越後国では、大帳使という中央へ計帳などの公文書をもっていく使者となっている例がある(『類聚三代格』斉衡二年九月二十三日太政官符)。



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