目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 律令制下の若越
   第一節 地方のしくみと役人
    三 地方政治のしくみ
      郡雑任のはたらき
 先に述べたように郡司は郡内の民政の全般にかかわっていたが、少数の定員の郡司のみですべてが処理できたとはとうてい考えられない。そこでこれまで重視されてきたのは、郡雑任とよばれる、正式の官人ではないが郡司の下ではたらく人びとの存在である(西山良平「『律令制収奪』機構の性格とその基盤」『日本史研究』一八七、同「〈郡雑任〉の機能と性格」『日本史研究』二三四)。越前国東大寺領荘園の史料は、郡司の下で働くこのような人びとの活動を知りうる宝庫でもある。
 まず、郡雑任は郡司の手足となって田地の調査を行った。この場合、文書のうえでの調査と実地の調査に分かれるが、前者は「郡書生」、後者は「田領」とよばれるものが担当していた。その場合注意されるのは、「田領」となっていた有力農民が、係争地の調査を行うとともに、一方で自らが係争の当事者になっていることである。
 たとえば、足羽郡にあった東大寺領栗川荘での田地紛争で、班田時に「郡書生」委文土麻呂と「田領」別竹山(鷹山)が、ともに少領阿須波臣束麻呂の命で現地へ派遣された(寺四二)。ところが、実はこの竹山自身も東大寺と栗川荘の田地について争っていたのである(寺三四)。当時彼は栗川荘に近接する上家郷の戸主であり、現地の有力農民と考えられる。
 郡雑任は郡司の指揮のもとに働くが、郡司どうしの立場が食い違う場合もあった。先の調査を命じたのは「少領」の阿須波束麻呂であったが、この束麻呂は道守荘に近接する「勅旨御田」の経営を委任され、東大寺の道守荘と用水争いを起こし、のちに東大寺にわび状を提出させられている(寺四二)。ちなみに道守荘の経営に大きくかかわっていたのは同郡の「大領」の生江東人であった。
 ところで、前国司が離任後も当地の郡雑任と関係をもち続ける場合があった。以前に越前国史生をしていて、京に帰ったのちに造東大寺司の役人となった安都雄足は、帰京後も当地の郡雑任と関係をもっていた。一例を挙げれば、「郡下任」道守床足(徳太理)は越前国足羽郡で溝を掘る計画について、安都雄足の「宅」の利害を代弁する発言を行っている。また同じ文書で米を精米して進上することが不可能な理由として、舂くための料稲が床足が「京から帰る前に」下されてしまっていたことを挙げていることも注意される(寺二〇)。郡雑任クラスの者も都との間を往来していたのである。
 以上みてきたように、郡雑任は郡司(郡領)に指揮されて、郡内の末端行政を行っていたが、一方で中央の諸勢力とも直接的に関係をもつ場合があったことが重要である。とくに中央からやってきた国司との間には公私のさまざまな関係が結ばれた。安都雄足は、文書がたまたま多数残ったことにもよるが、越前国においてそのような関係の中心にあったことがわかる。



目次へ  前ページへ  次ページへ