目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 律令制下の若越
   第一節 地方のしくみと役人
    三 地方政治のしくみ
      郡司のはたらき
 郡司の仕事は民政全般にかかわるといっても過言ではないので、ここでそのすべてを述べることはとうていできない。そこで、前項で評の設置が地域の人びとへの強制的な労働徴発と裏腹の関係にあったことを思い起こし、郡司が実際にこの地域での力役徴発にどのようにかかわっていたのかを述べてみたい。幸い八世紀の越前国には東大寺領荘園に関する史料が多数残っている。その荘園のありさまは次の第五章第一節で述べるが、ここでは地方政治を行う郡司の側からながめてみよう。
 郡司はたんに地方の豪族としての伝統的権威のみによってその地域を支配していたのではなかった。先にみたように評の官人の時期より、天皇を頂点とする律令制の公権力を地域で執行する役割を担わされていたのである。その中心にさまざまな身分の労働力を横断的に編成する役割があったことも以前に述べたとおりである。たとえば次のような例がある。
 越前国足羽郡には東大寺の荘園である道守荘があったが、新たに溝を掘ることになった。この地方の大豪族である生江臣東人が、足羽郡司として天平神護二年に越前国衙に提出した解には「郡司がはかり考えますに、寺家や王臣以下百姓などがともに力を合わせて溝を掘るべきだと思います」と述べている(寺四〇)。これは初期荘園のところでも述べるように、たんに伝統的な共同体の族長としての力にものをいわせて、彼の権威に服する住人のみを強制的に使役するという姿ではない。寺家や王臣家なども含めて、支配領域内の身分をまったく異にする者を役に赴かせるのに、その領域を支配する公権力を執行する者としての性格が前面に出ているのである。
 ところで、荘園の経営者側からみれば、郡司の公権力による徴発がすべてプラスに作用していたとは限らず、両者の利害が対立する場合もあった。たとえば、丸部足人という東大寺の米の運送を請け負っていた下級官人を、郡司が雑役に差発し、さらにそのうえ秋田城へ米を運搬する責任者に指名したことにより、荘園の米を京へ運上することができないという事態が生じていた(寺二六)。
 この場合、丸部足人は造東大寺司の主典であった安都宿雄足へ「愁状」を提出しているが、そのなかで「自分はつねに貴方様にお仕え致しております」ということを強調している。
これは横の地域的な関係ではなく、縦の主従関係といってよく、このような関係が郡司の地域的な徴発と衝突する場合があったのである。なお、丸部足人は安都雄足を通じて当時の権力者藤原仲麻呂につながっていたことが他の史料から知られるが、藤原仲麻呂―安都雄足―丸部足人という、領域支配とは異質な人的な上下の結びつきの原理の存在は注目すべきである。同様の結びつきは、九世紀になると「院宮王臣家の使」「諸司・諸家人」などという形で現われ、運送業者に自家の荷物を強制的に運ばせる「強雇」を行うものとして政府から繰り返し糾弾されるにいたる。このように衝突は九世紀になるとより重大な問題となり、政府は彼らを公的な枠組みに引き戻そうとするが、なかなかうまくいかなかったようである。



目次へ  前ページへ  次ページへ