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 第四章 律令制下の若越
   第一節 地方のしくみと役人
    三 地方政治のしくみ
      郡司の補任状況
 郡司の補任については「大化改新詔」では国造から郡司をとるようになっていて、これを孝徳朝当時の評の官人の任用規定として認める立場と、大宝令によって造作された条文とする意見とがある。大宝・養老選叙令では、大領・少領は清廉で務めにたえる者をとり、主政・主帳は書や算術にたくみな者をとるとし、大領・少領については、才能が同じならば「国造」を優先的にとれという。
 しかし実際に郡司の任用条件として重視されたのは、難波朝廷(孝徳朝)以来の「譜第重大」の家柄ということであり、評が立てられて以後その役職を世襲してきたという実績である。ただしその世襲範囲は傍系親をも含む広い範囲に及んでおり、そのなかで能力的に優れた者を国司が推薦し、式部省で試験して任命していた。
 平安時代に入って延暦十七年に譜代(第)氏族からの任用をやめ、才能を第一に選ぶことになったが、弘仁二年(八一一)にはその才能第一主義をやめ再び譜代任用によることになった。やはり伝統ある譜代の家柄でなければ郡内は治められないというのがその理由であった。なお、当時の才能主義は譜代主義とまったく相いれないものではなく、中央にトネリとして出仕して得た律令官人としての「才能」が問題にされ、大きな枠組みとしての譜代のなかでの「才能主義」であった(トネリについては四項)。このような譜代氏族の郡内での支配が大きく揺らぐのは九世紀に入ってからである(今泉隆雄「八世紀郡領の出自と任用」『史学雑誌』八一―一二)。なお平安時代に入ってからは、中央で正式に任命される前の擬郡司(郡司候補生)が実際の郡務を行っているケースが増加する。
 以上の一般的な動向を念頭にいれて、若越の郡司をみていこう。若狭においては古代の郡司はほとんど知られていないので、越前国のそれを一覧表にしたのが表24である。まず、複数の世代にわたって郡領を出している氏としては、坂井郡の三国真人、足羽郡の生江臣があり、立評(郡)以来の譜代氏族かどうかは明らかでないが、奈良時代には郡領の地位を世襲しうる立場にあったことがわかる。これらのほか、郡領としてみえるもので国造の氏あるいはそれに相当する地位を有していたと推定されるものとして、敦賀郡の敦賀直、丹生郡の佐味君、江沼郡の江沼臣、加賀郡の道君などがあり、いずれも当地域の豪族として的な勢力を誇っていたものが郡領に任ぜられていることがわかる。このうち佐味氏に関しては、最近武生市の村国遺跡で発掘された多数の墨書土器のなかに「佐味」と記すものがあることが注目され、この地に佐味氏が郡領氏族として勢力をはっていたことを示している(第七章第一節)。また、角鹿直綱手については最近出土した長屋王家木簡に敦賀郡「江祥(与祥)里」の戸主としてその名がみえることが注目される(『平城宮発掘調査出土木簡概報』二五)。
 以上に対して特異な位置を占めるのが、東大寺領荘園の史料に多くみられる品遅(治)部君(公)広耳である。彼が天平五年には無位主政であったが、天平宝字元年には墾田を東大寺に寄進して、大領で外正六位上の地位を有するようになっていた。またこのときは「君」のカバネを有していることも注意される。
 郡司と一口にいっても、大領・少領と主政・主帳とは先に述べたように任用基準を異にし、出身母体も異なっていた。そのようななかで譜代氏族にあらずして主政・主帳から大領・少領に昇進した例は八世紀ではきわめて珍しい。初期荘園の活発な開墾のもとで、墾田寄進という行為を媒介に郡領の地位を得ることができた北陸地域特有の状況が背景として考えられる。なお品治部公氏は、のち宝亀十一年に少領としてみえており、郡領としての地位は広耳一代限りではなかったようである。



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